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May 25, 2023

コロナグローバリズム j-fashion journal(500)

1.グローバリズムは行き詰まったのか?
 
 こんな風説がある。「トランプ大統領はウォール街の国際金融資本と戦っていた。しかし、彼は中国との対立を鮮明にして、アメリカ第一主義というローカリズムを提唱した。これはグローバリズムを破壊する過激な動きだったため、一期で無理やり下ろされた」
 真偽は不明だが、世界第一の経済大国が世界第二位の経済大国に対して、自由貿易の原則を破り、互いに報復関税を掛け合うという前代未聞の事件が起きたのは現実である。私個人も、トランプ元大統領の政策を見て、「日本にとって中国生産とはなんだったのか」と考え直した。
 グローバリズムとは、世界中の企業を一部の大企業の下請けにすることではないか。そして、一部の大富豪と大多数の貧困者を生み出す仕組みではないか。それなら、地域で自立した経済を構築し、自立したビジネスを営む方が幸せではないのか。中国経済が減速する中で、最早グローバリズムは限界を迎えたのではないか。そう考えたのだ。
 
2.ウイルス人工起源説は本当か?

 グローバリズムが崩壊する中で、COVID-19が世界中に蔓延した。トランプ元大統領は、COVID-19を「チャイナウイルス」と呼び、「感染拡大の責任は中国にある」と主張した。更に、ポンペオ国務長官は「新疆ウイグル地区のウイグル人人権弾圧はジェノサイドである」と認定した。これで世界の分断は決定されたかに見えた。

 しかし、新たなグローバリズムがスタートしていたのだ。通常、新しいウイルスによる感染症が発見されても、多くは局地的な流行で終息する。毒性の強いウイルスは、感染が拡大する前に感染者が死亡してしまうので世界的に広がることはない。毒性の弱いウイルスで死亡リスクが少なければ、単なる新型インフルエンザということで処理されるだろう。感染力が強く、毒性はそれほど強くない。しかも、潜伏期間が長く、無症状感染でも感染力を維持する。パンデミックを起こそうと思えば、これが理想的なウイルスとなる。
 最近になって、この理想的ウイルスが人為的に作られたのではないか、という可能性が出ている。武漢ウイルス研究所では、重症急性呼吸器症候群(SARS)のウイルスを研究するために、コウモリのウイルスと結合させた「人工ウイルス」を造った。これは「機能性獲得実験」と呼ばれるもので、ある遺伝子の機能を調べるためにその機能を増強させる実験手法である。
 元々、米国立アレルギー・感染症研究所(NIAID)のアンソニー・ファウチ所長が米国内で機能性獲得実験を行っていたが、2014年10月に米国政府がこの実験に対する資金供給を停止したために、武漢ウイルス研究所に間接的に資金援助し、機能性獲得実験を委託していた、という疑いが出ているのだ。それを裏付けるように、COVID-19のウイルスの分子配列が人工的なものであるという研究論文も発表されている。
 更に、中国政府は春節の海外旅行を禁止せず、WHOのテドロス事務局長が「中国人観光客の受け入れ拒否すべきではない」と発言した。
 現在、米国の主流メディアも、連日ファウチ所長に関するニュースを流している。近い将来、真相が明らかになるだろう。
 
3.治療薬よりワクチン接種
 
 2020年の段階では、効果が確認された治療薬のニュースが次々と報じられた。アビガン、レムデシビル、イベルメクチン等、別の病気の薬として開発された薬を試験した結果、効果があると報じられたのだ。
 しかも、これらは特許の切れたジェネリック薬もあり、価格も安い。逆に言えば、製薬会社にとって、利益の出ない薬であり、これらが普及して効果が出れば、ワクチンの接種も進まないだろう。
 2021年になると、治療薬に関するニュースは姿を消し、ワクチン開発のニュースが増えてきた。ワクチンさえ打てばコロナ禍は収まると報じられたのだ。
 もし、COVID-19が人工的に開発されたものだとすれば、そのワクチンも同時に研究されていたに違いない。重症急性呼吸器症候群(SARS)のワクチンは、現在まで開発されていないが、今回のCOVID-19のワクチン開発は非常に早かった。
 中国製ワクチンは不活化ワクチン(死んだウイルスの一部を使って体の免疫系を刺激するもの)であり、米ファイザーと独ビオンテックや、米モデルナが開発したワクチンはmRNAワクチンである。どちらも、通常なら開発までに最低3年は掛かると言われているが、それを1年程度で実用化したのだ。そして、迅速に緊急使用を認められている。
 そして、世界中で接種が始まった。グローバルなウイルスに対して、グローバルなワクチン接種が行われたのだ。
 ワクチンの効果は、半年と言われている。半年に一度のワクチン接種が定着すれば、巨大なグローバルビジネスとなるのだ。
 
4.グローバルワクチンビジネス

 ワクチン接種をグローバルビジネスと考えると、世界が均一な市場であることが望ましい。世界の感染者が同じように推移し、重症化や死亡率も同じであれば、同じワクチン接種を世界規模で行うことが可能になるからだ。
 しかし、グローバル市場の中でやはり日本市場は異質なようだ。米国では全人口の10%が感染しているのに対し、日本は0.1%に過ぎない。そして、発症しても治療により回復する人が圧倒的に多い。6月18日現在の実効再生産数は0.82なので、パンデミックは収束に向かっていることが分かる。
 もし、米国が日本のような状況ならば、何の制限も行わないだろう。それでも、日本のマスコミは懸命に恐怖を煽り、ワクチン接種を呼びかけている。一方で、「ワクチンによる集団免疫獲得は困難である」という弱気なニュースも増えている。
 アメリカでは、新型コロナウイルスワクチンの接種を少なくとも1回受けた人が1億2000万人を突破した。感染が収束に向かい始めるのに必要な免疫獲得者の割合を「集団免疫閾値(いきち)」と呼び、その割合はウイルスによって異なるが、新型コロナの場合は60~80%の間とみられている。米国バイデン大統領は集団免疫を獲得するのは、早くて今年の夏末と発言している。
 集団免疫を獲得する方法は、実際に感染する以外は、ワクチン接種しかない。しかし変異株の出現やワクチンへの信頼の欠如、データ不足といった多くの要因から、現時点では集団免疫の獲得時期を予測することは不可能と言われている。
 更に今後、感染歴やワクチン接種歴のある人でも感染のリスクがある変異株が生まれる可能性もある。また、最近の研究によれば、新型コロナの免疫持続期間は人によって大きく異なるとみられている。そのため、感染した後に回復した一部の人、あるいは全ての人が再び感染する可能性があるという。こうなると、ワクチンは本当に効果があるのか判断できなくなる。
 ワクチン接種は重症化を防ぐ効果はあると言われているが、一方で副反応も報告されている。このバランスにより、グローバルワクチンビジネスが継続できるかが決まるだろう。

*有料メルマガj-fashion journal(500)を紹介しています。本論文は、2021.6.21に配信されたものです。リアルタイムでの講読をご希望の方は、http://www.mag2.com/m/0001355612.htmlよりお申し込みください。   
 

日本のコロナ禍は作られた j-fashion journal(499)

1.日本では新型コロナによる超過死亡なし
 
 超過死亡とは、死亡率の変動である。例年と比較して、新型コロナウイルス感染症で死亡者が増加すれば、それは超過死亡となる。
 我々がパンデミックを恐れるのは、死亡者が増えること。つまり超過死亡が増えることである。感染者数が増えれば、重症者が増え、死亡者が増える。したがって、最初の兆候である感染者数の増加を恐れているのだ。
 しかし、もし、超過死亡がなければ、パンデミックを恐れる必要はない。例年通りの死亡者が出ているに過ぎないからだ。
 米国では2020年4月からほぼ1年間、毎週超過死亡となっている。明らかにウイルス感染症で死亡者が増えていると考えられる。しかし、日本ではそのその期間で超過死亡になったことは一度もない。というより、例年より過少死亡の傾向が強いのである。マスコミも政府もコロナの恐怖を煽っているが、事実は超過死亡者がいないどころか、死亡者は減少している。これはコロナウイルスのお蔭で、インフルエンザの流行が消えたことが大きく影響している。
 一時期、コロナとインフルエンザのダブル感染という新たな恐怖を主張した専門家もいたが、この結果を見る限り、全くの見当外れだったことがわかる。
 あくまで日本に限ったことだが、パンデミックはあったが、心配する必要はなかった。その意味で、内閣参与の高橋洋一氏の「さざ波」という表現は正しかった。「さざ波を放置しておくと、津波が来るぞ」と脅す専門家が次々と登場したが、一人として予想は当たっていない。
 
2.分類の格下げと治療薬承認を
 
 これほど死亡者が少ない感染症なのに、新型コロナは、初期の段階で指定感染症第二類に分類され、それが現在も継続している。第二類は、ジフテリア、SARS、結核等の命に関わる感染症であり、一般の病院での治療ができない。
 多くの医師は、通常のインフルエンザと同様の第五類が妥当だという意見を出しており、厚労省内部でも2020年8月末の時点では格下げを検討していたらしい。しかし、なぜか、厚労省は2022年1月末まで第二類指定の延長を決定した。(実際は更に1年以上延長した)
 もし、第五類に分類されれば、インフルエンザと同様の扱いになり、医療施設の逼迫もなくなる。インフルエンザのように、一般病院で検査をして「コロナですね。お薬出しておきます」で終わり。問題は治療薬だ。
 実は、有効な治療薬の見通しもついている。
 新型コロナの変異株の蔓延で感染爆発が起きていたインドだが、各州が抗寄生虫病の特効薬「イベルメクチン」の本格投与に踏み切ってから、感染者数・死亡者数ともに減少に転じている。当初、インド政府はWHOにイベルメクチン投与を打診したが、あくまでワクチンによる治療をすまように指示された。しかし、ワクチン投与しても感染者は減らず、州単位の判断でイベルメクチンを投与したら、劇的な効果があり、投与を拡大したという。
 更に、イベルメクチンの効果はアフリカでも実証されている。アフリカは医療環境も悪く、ワクチンを入手できなかったため、感染爆発が心配されていたが、寄生虫薬イベルメクチンを配布した国は感染者が少なく、配布していない国は感染者が多いという結果が出ている。つまり、治療薬であり、予防薬でもあるのだ。
 日本だけかもしれないが、コロナ禍を終息させるのは簡単である。感染症分類を第二類から第五類に格下げし、イベルメクチンを認可すればいい。そして、緊急事態も蔓延防止も中止し、通常の生活に戻す。
 感染したとしても、インフルエンザより死亡率は少ないし、有効な治療薬も(しかもジェネリック)ある。ある程度、感染者が増えるだろうが、それが集団免疫となり、感染拡大を防げるだろう。
 
3.専門家の当たらない予想
 
 科学的な態度とは、予断を排し、事実を元に考えることではないか。なぜか、今回のコロナ禍では最初から真実がねじ曲げられていた。中国政府は感染症の発生を隠し、WHOは「人から人への感染はない。中国からの旅行客の入国を拒否すべきではない」と主張した。その結果、春節の中国人観光客はウイルスと共に世界中に拡散した。
 中国で感染が爆発し、海外の中国人はマスクを買い占め、中国に送った。日本の政治家も備蓄してあったマスクや防護服を緊急援助として中国に送った。その後、中国政府は日本企業が発注していたマスクや防護服を全て差し押さえ、輸出も禁止した。その結果、日本中でマスク不足となった。
 感染者が増えた世界各国は積極的にPCR検査を始めたが、なぜか日本では頑なに検査を増やさなかった。総理大臣が「検査を増やす」と言っても、検査は増えず、発熱や咳の症状が出ても検査してもらえず、自宅療養のまま死亡する人も出た。それでも、冷静に全体をみれば、超過死亡はなかったのだから、問題はなかったのだ。
 そして、「クラスターのコントロールを徹底する」と主張し、三密防止、手洗い、マスクが国民の義務であるかのように報じられた。それが「飲食店の休業要請」や「酒類の提供自粛」につながっていくのだが、実際にクラスターが発生したのは、病院、学校、老人向け施設、刑務所、家庭内等の感染が多かった。それでも、施設の導線の改善や設備強化という対策ではなく、一般市民の日常生活を制限する対策ばかりが強化された。
 そして、マスコミと専門家は恐怖を煽り続けた。「このままでは2週間後に大変なことになる」「このままでは1カ月後に感染爆発が起きる」と専門家が煽りに煽ったが、一度も感染爆発は起きなかった。それでも、「高齢者が危険だ」とか、「後遺症が怖い」とか、「変異ウイルスで若者も重症化する」とか、ありとあらゆるリスクを声高に主張した。
 思えば、この一年半の間、専門家は常に当たらない予想を繰り返し、政府を批判するだけだった。そして、超過死亡者がいないという事実、感染症による被害はほとんどなかったという事実を無視し続けている。
 
4.緊急下の「mRNAワクチン」接種

 今回の新型コロナ用の「mRNAワクチン」は史上初の画期的なものだ。
 2020年12月までは、ヒトでの使用が許可されたmRNAワクチンは存在していなかった。短期・長期を含めて未知の影響(自己免疫反応や疾患など)が懸念材料としてあったためである。実際、様々な実験の中で副作用が深刻であり、多くの大手製薬会社はmRNAを使った技術を放棄していたのだ。
 しかし、モデルナ社とファイザー/バイオンテック社は、「ワープスピード作戦」という資金ファンディングを募り、緊急下のなかで臨床試験の許可も得て、mRNAをベースにした新型コロナワクチン(COVID-19ワクチン)の開発を始め、2020年12月2日、最終臨床試験の8週間目から7日後、英国のMHRAがmRNAワクチンの「緊急使用許可」を与えたのである。
 こうした経緯を考えると、「mRNAワクチン」が絶対に安全とは言えないし、通常のワクチン同様の副作用も存在する。厚労省がワクチン接種が始まる以前の段階で「ワクチンは強制ではない」と発表したのも当然である。
 今回の「mRNAワクチン」接種は、世界的な人体実験でもある。また、ビジネスの視点で見ると、降って湧いたような巨大なビジネスである。変異型対応による継続性もある。いつのまにか、新型コロナはワクチンだけが解決の手段だと言われるようになった。
 私は、日本で死亡者がほとんど出ていない10代、20代の若者にワクチンを打たせるのは、あまりにもリスクが高いと思う。ワクチンを打たなくても、大多数が無症状か軽症状で完治するのだから、ワクチン接種の必要性もない。
 コロナの恐怖を煽っていたマスコミは、最近はワクチン接種を煽っている。しかし、そもそも、日本においてはコロナの恐怖なんて存在しない。さざ波なのだから。 

*有料メルマガj-fashion journal(499)を紹介しています。本論文は、2021.6.14に配信されたものです。リアルタイムでの講読をご希望の方は、http://www.mag2.com/m/0001355612.htmlよりお申し込みください。   

April 01, 2023

「生と死」に関する故人Tとの会話 j-fashion journal(469)

 おー、久しぶり。元気。前回は、日暮里だよね。Mと一緒に飲んだじゃん。あの時、結構酔ってたでしょ。最後、呂律が回ってなかったよ。
 この間、Mからチャットが来てさ。「またT誘って飲み行こうぜ」という話になったんだけど、お前が「癌で闘病中だ」って言うから、「じゃ落ち着いてからだな」ということになってたわけよ。
 そしたら、急にお前の奥さんからメールが来て、死んだって言うから、びっくりしてさ。葬式も終わったっていうから、「まぁ、そういうご時世だよな」とは思ったよ。
 悪い悪い。こっちも良くなると思ってたけどさ、入院したら全然回復しないわけ。どんどん弱って、死んじゃった。
 それはいいけどさ、話したいこと一杯あるんだよ。
 あぁ、俺だって聞きたいこと一杯あるよ。そもそも何で死んだ奴がノコノコ出てくるわけよ。
 これ、みんな誤解してるんだよね。病気が悪くなると死ぬじゃない。だから、死んでる状態は病気より具合が悪いと思うでしょ?でも、実際死んでみると、悪いのは生きているからであって、死んでしまえば悪いところはなくなるでしょ。だから死ぬと健康。
 それって、命より健康が大事っていう話かい。
 そうそう、死んでみて分かったことがいろいろあってさ。それを話したかったんだ。
 まずさ、なぜ死んだのに話しているかと思うんでしょ。でも、人間の会話ってさ、相手の話を聞くよりも、自分の言いたいことを言い合っているだけで、相手が生きているとか関係ないんだよね。話しやすい相手に話しているようだけど、結局、自分で話したいことを話しているだけだからさ、相手の存在はそれほど重要じゃないんだよ。
 まぁ、そう言われてみれば、そうかもしれないね。チャットとかもさ、相手が生きているかなんて考えていないもんね。
 そうでしょう。肉体があるとかないとか言ってもさ、普通話してる時に相手の肉体なんて考えないでしょ?
 そりゃ、お前の肉体を考えながら話していたら気持ち悪いよ。
 でしょ。だから、生きてても死んでても、肉体があってもなくても関係ないんだよ。
 まぁね。それで話したいことって何よ。
 そうそう。Sさん、死んだことないよね。。
 そりゃないよ。生きてるんだから。
 いや、もしかして、死んでるかな、と思って。そうだと、今から言う話は興味ないかもしれないなって。
 だから死んでないって。
 死ぬ瞬間って、どんな感じだと思う?だって一度しか死ねないからね。それを確認する唯一のチャンスでしょ。
 でも、臨死体験の話って結構あるでしょ?
 あるんだけど、あれはあくまで臨死であって死んでない。臨死と死が同じであるっていう証明されてないし。
 自殺と自殺未遂は全く違うってのと似てるかな。
 でも、実際には結構難しいわけ。なぜなら、死ぬ瞬間って身体が弱っていて、痛み止めの麻薬とか打たれてるから、意識もあまりないんだよ。そうすると、いつ死んだか分からないということになる。朦朧としているうちに死んじゃう。
 だから、痛み止めは打たない方がいいんだよね。その瞬間を確認してければ。
 でも、痛いの嫌でしょ?
 そう。だから、朦朧としながらも、頑張って意識の一部を意識しておこうと思って。生きているかちは、痛いわけだよね。でも、人間は凄く痛いと失神するからね。多分、痛みって、脳が危険信号を出しているわけでしょ。でも、危険信号出しても無駄だよね、となったら痛くなくなるんだよ。
 瞬間って本当に瞬間だから、凄い透明の膜があって、そこを通りすぎる感じ。通る前は生きているから痛かったりするんだけど、通った瞬間に何も感じなくなる。記憶もなくなるから、今まで痛かったことも忘れるんだよ。つまり、生と死の間って、本当に一瞬、という話。それで死んだことがわかる。
 なるほどね。でも、その話って、生きている俺が聞いて、何か役に立つこと?
 役には立たないけど、面白いじゃん。だって、死ぬ前は大騒ぎするわけでしょ。いろいろと。まぁ、それが生きてるってことだけどね。
 そういえば、前に「長生きしたいか?」って話になったよね。お互いに「別に長生きしたくないよね」っていう結論だったけど。
 生きることが目的ではなくて、生きて何がしたいのか。何をするのか、ということだからね。そういう意味では、大体やりたいことはやったし、ジイさんになって出来ることも限られてるしね。
 もしかすると、長生きしたいというのは、死にたくないというのと同義語かもしれない。死ななければ長生きだから。
 だから、死ぬ瞬間の話をしたっていうこと?
 いや、それは単純に面白いからっていうだけだけど。
 こんな話ができるのも、Tしかいないっていうことかな。
 お互いにね。じゃあ、また。

*有料メルマガj-fashion journal(469)を紹介しています。本論文は、2020.11.16に配信されたものです。リアルタイムでの講読をご希望の方は、http://www.mag2.com/m/0001355612.htmlよりお申し込みください。  

November 10, 2022

安倍総理辞任に思うこと j-fashion journal(458)

1.米中バランス政策が崩壊した

 日本は、安全保障では米国と軍事同盟を結んでいます。米国がアメリカ第一主義を唱え、日本に防衛上の自立を迫っています。米国の核の傘の下に隠れているだけでは済まなくなりました。
 経済面では、日本は中国との互恵関係を守ってきました。尖閣の問題もありますが、日本は日中間に領土問題は存在しないとしています。本来ならば、今年は習近平首席が国賓として来日する年でもありました。
 その後、東京オリンピックで世界の人々を迎えれば、米国、中国に加えてロシアとも良好な関係を築いていたと思います。少なくとも、安倍総理はそういう外交ビジョンを考えていたでしょう。
 しかし、米国と中国の対立が激化しました。最初に貿易問題が表面化し、関税の掛け合いが始まりました。
 米国は、5Gにおけるファーウェイ社等を制裁対象にしました。ファーウェイの通信機器にはバックドアがついており、全てのビッグデータが中国共産党に流れているとの主張です。同時に、中国は先端技術を米国から盗んでおり、そのスパイの拠点がヒューストンの中国領事館であるとして、閉鎖を命じました。
 中国も報復措置として、成都の米国領事館を閉鎖しています。
 また、中共政府は、香港国安法を施行し、平和的なデモ参加者を逮捕し、過去の活動を含めて国安法違反として香港の民主活動家らを次々と逮捕しました。
 香港の人権弾圧だけでなく、ウイグルやチベット、モンゴル等でも中共政府が人権弾圧を行っており、その監視システム等を支えているファーウェイ社等も制裁対象となっています。
 更に、南沙諸島埋め立て工事等に参加した企業も制裁対象となりました。今後、制裁対象に追加される中国企業は増えていくでしょう。
 ICTを活用した監視、洗脳システムとして、TikTokやWeChat等のアプリ及びサービスを提供している企業も制裁の対象としました。  更に、米国は「クリーンネットワーク構想」により、インターネットでも完全に中国を遮断すると宣言しました。
 ここまで来ると、日本の米中バランス外交は不可能です。米国につくか、中国につくか、の二者択一を迫られています。
 しかし、安倍総理は日本政府の明確な姿勢を示していません。香港国安法については反対し、自衛隊はアメリカ、インド、台湾の海軍と合同演習を行っていますが、それ以外は沈黙を守り、中共政府を刺激するような発言はありません。
 
2.米大統領選前のタイミングに

 今回の安倍総理辞任会見のタイミングは、米大統領選の前であることに意味があると思います。
 安倍総理から新総理に代わることで、米国、中国の両国に対して、リセットできます。
 安倍総理は、トランプ大統領、プーチン大統領、習近平首席等の大物とのコミュニケーションが得意でした。しかし、新総理は外交の経験もなく、安倍総理と比べると「小者」の印象を与えるでしょう。そして、少し距離を置かれるかもしれません。
 それにより、問題を先送りするという考えが政府にはあるかもしれません。通常ならば、問題の先送りは問題を大きくすることがありますが、今回の場合は先送りした方が賢明かもしれません。
 おそらく、今年度末頃には、世界の行方はある程度見通せるのではないでしょうか。米国大統領選挙も終わりますし、対中制裁の行方、中国経済の行方も見えてくると思います。5G覇権問題も結果が出ているはずです。
 日本もコロナ禍の経済への影響が表面化し、大変な状況になっているでしょう。オリンピックの結果も出ています。コロナのワクチン開発についても目処は立っていると思います。
 ある程度の見通しがたった段階で、日本は新たな政策を発表するべきです。しかし、次期総理は一年間の任期ですので、選挙管理で終わると思います。本番は次の次の総理ということになります。
 次の総理は時間稼ぎ、その次の総理選出の準備が主な業務となります。本当に大切なのは来年の秋からです。それまでに、コロナ禍が終息していることを願うしかありません。
 
3.政府通貨発行の仕組みつくりを

 安倍首相のデフレ脱却は失敗しました。その原因は、プライマリーバランス重視と金利だけで通貨流通量を調整しようとしたことです。金利を下げても、需要がなければ、企業は投資しません。
 実は需要は多いのですが、企業の経済活動と直結する需要は少ないのです。そして、海外では国家が負担している事業を自己負担にしているケースも少なくありません。
 例えば、介護問題です。現在の介護保険だけでは足りませんし、消費税は社会福祉に使うと言っていたのが、なし崩しになっています。
 教育費も家計を苦しめています。世界には、国が教育費を全面的に負担するケースもあります。教育は国の事業であり、個人に負担させるべきではない、という考え方があってもいいと思います。
 災害に対するインフラ整備も不十分です。バラマキといって、公共工事が批判されましたが、これも行き過ぎでした。
 防衛費もGDP1%の枠を撤廃し、周囲の情勢を見ながら、柔軟に対応すべきでしょう。
 これらの需要に対して、通貨供給量をコントロールするという発想が必要になります。そして、適度なインフレ率を保つ。
 また、本気で格差是正を目指すならば、累進課税や貯蓄に対する課税も必要です。通貨の供給については、デジタル通貨を含め、政府発行通貨の検討が必要になります。
 この問題を解決しないと、日本人は幸せになれません。
 財務省任せではなく、政治の力と世論の力を最大限に活かすべきです。既存メディアが財務省寄りならば、ネット上のメディアを駆使する運動を起こしましょう。
 これは、次期の次期総理に期待したいと思います。
 
4.対立と浸透に対抗できるか?

 米国は常に敵国を必要としています。まず、敵国を設定し、それを宣言し、法的根拠を整えてから、論理的に相手を追い詰めます。
 中国は、友好国の顔で近づき、目標とする国、企業、国際機関等に静かに浸透します。。そして、企業を買収し、要人を買収し、最終的には経済で縛り上げるのです。
 この二つの大国に共通しているのは、最終的には国としてまとまって対抗するということです。
 日本が、米中両国に対抗するには、やはり、国全体としての体制作りが必要でしょう。浸透させないためのスパイ防止法制定とインテリジェンス機関の強化。これには、ファイブアイズへの加入が有効だと思います。
 更に、対立に対しては、外交戦略と防衛戦略が重要になります。
 その上で、日本が優位を保てる独自技術、独自製品の開発と、それを支えるマーケティング戦略が必要になります。
 これらの方策は民間企業だけでは対応できません。国との密接な連携が必要になります。
 競争に勝つことは、企業だけの課題ではありません。行政や政治家も他国との競争をしているという意識を持ち、どのように勝つのかという戦略が必要です。
 国のリーダーには、以上のようなビジョンを明確に示し、各省庁が連携して、強く豊かな日本を実現していただきたいと思います。

*有料メルマガj-fashion journal(458)を紹介しています。本論文は、2020.8.31に配信されたものです。リアルタイムでの講読をご希望の方は、http://www.mag2.com/m/0001355612.htmlよりお申し込みください。  

幸せになれる暮らしと仕事 j-fashion journal(456)

1.幸せって何?不幸って何?

 恋人同士で「幸せになろうね」と言う場合、そこには「結婚したら幸せになれる」という思い込みがある。しかし、実際に結婚すると、そこは幸せのゴールではなく、生活のスタートであることに気がつく。
 同様に、幸せの条件と考えていたものが満たされても、幸せになれるとは限らない。
 例えば、「お金があれば幸せになれる」と考える。欲しいものは何でも買えるし、美味しいものも食べられるし、行きたい場所に旅行にも行ける。
 「欲しいものが何でも買える」ほどのお金を手にしたことはないが、「今、欲しいものは何か」と問われても、すぐには思いつかない。車が古くなったので、新車に代えたいとは思うが、古い車でも特に不便はない。そもそも、私は「車は走ればいい」と思っているので、ろくに洗車もしない。
 もちろん、美味しいものを食べたいとは思う。たまに食べる本マグロの大トロは美味しい。でも、鰹でも鰯でも美味しいものは美味しい。食べれば美味しいと思うが、食べられなくても不幸だとは思わない。
 蕎麦も美味いし、お酒も美味い。それほど美味しくなくても、まぁ、それなりに満足する。もちろん、銘酒は美味いが、安酒しかない店で呑む安酒もしみじみと美味い。
 旅行に行けば行ったで楽しいが、それなりに疲れる。ゆったりと一人で散歩するのも結構楽しい。どちらが楽しいかと言われると、どちらも楽しいと思う。
 幸せに対しては曖昧だが、不幸については明確なイメージがある。
 何かを強制されるのは嫌だ。押しつけられたり、命令されるのが嫌だ。楽しいことでも、命令されれば嫌になる。嫌なことをやらされるのは、即ち不幸である。
 やりたくないことをやらされる。自分のペースではなく、決められた時間通りに行動することを強制される。それも嫌だ。嫌な人と会話したり、食事をするのも嫌だ。
 そう考えると、私の場合、お金がないから不幸なのではなく、行動や思考を制限されること、自由を束縛されることが不幸なのだ。
  
2.マズローの欲求5段階説と幸せ

 マズローの欲求5段階説の順に欲求が満たされれば幸せになれるのだろうか。
 最初に必要なのは「生理的欲求」だ。具体的には、呼吸、食事、水、排泄、睡眠、性、恒常性維持など。これは、健康が維持できていれば、問題ない。
 二番目が、「安全欲求」。身の安全、雇用の安定、健康、財産、資源確保など。これは、生活の維持ができれば問題なさそうだ。
 三番目が「社会的欲求」。友情、愛情、家族、社会。社会に所属していることが実感できること。
 家族をつくり、どこかに所属するという満足感を得たいというのだが、これはシングル社会の現在ではどうなのだろう。配偶者や子供を強く望む人にとっては、それが幸せの条件になるかもしれないが、それが満たされたからといって、幸せになれるというものでもない。
 四番目が「承認欲求」。自尊心、自信、達成、他人からの尊敬や承認。
 自分が集団から存在意義を認められ、尊重されたい欲求。このあたりから幸せの条件に関係しそうだ。自尊心が持てない、自信がないという状態は幸せな気分になれそうにない。しかし、自尊心が強く、自信が持てたとしても、不安がなくなるわけではない。
 他人からの尊敬や承認は、地位や権力に直結している。高い地位につけば、尊敬は得られるが、この場合も、その地位を保つことを考えなければならないし、地位から落ちることに対する不安も出てくる。
 また、多数の人から尊敬されなくても、少数の人でもいい、という場合もある。
 承認欲求も幸せの条件ではなさそうだ。そもそも承認欲求を持たない方が幸せになる可能性もある。
 五番目が「自己実現欲求」。道徳、創造性、自発性、問題解決、事実の受諾。
 自分の持つ能力や可能性を最大限に発揮したいという欲求だが、これはビジネスで成功する欲求とも重複する。
 しかし、ビジネスで成功しても、プライベートな暮らしで不幸になるケースもある。
 こう考えていくと、「欲求」は幸せに直結した概念ではなさそうだ。
 
3.充実しているが不安定な仕事

 子供の頃、親や学校の教師から、一生懸命に勉強して良い成績を取れば、良い学校に進学できて、良い会社に就職できると教えられた。しかし、親が個人事業主であったこともあり、サラリーマンになりたいと思ったことはなかった。
 この時点で勉強するモチベーションがなくなったが、勉強は好きだった。勉強は面白いが、受験勉強は面白くない。受験勉強は記憶力の勝負であり、面白い学問をつまらないものにしていると思った。
 私は記憶することより考える力が大切であり、覚えなくても、本を開けばいいと考えた。
 私は大学ではなく専門学校を選び、卒業してから企画職で就職した。サラリーマンで競争に勝って、出世したいという気持ちは全くなく、プロとして転職しながらキャリアを磨き、独立しようと思った。そして、アパレル3社を経て、30歳で独立した。
 「好きなことを仕事にして夢が叶ったね」と言われたが、こんな簡単なことが夢であるはずはない。むしろ「好きなことを仕事にしなくてどうするんだ」と思う。
 「こんなことがしてみたい」という仕事のビジョンを立て、そのほとんどは達成した。やりたいことを整理して、紙に書いた段階で、半分以上は計画ができている。あとは、実行するだけだ。
 本も出版したし、大学や専門学校の講師も経験した。一応、業界のオピニオンリーダーにもなり、役所でも意見を聞かれるようになった。国内の大企業、中小企業とも契約し、海外企業とも仕事をした。
 でも、全ては「スケジュールを立て、期日までにやるべきことをやる」という繰り返しに過ぎない。
 達成していないのは、経済的な安定だけだ。普通の人が一番先に考えるべきことを全く考えずに生きてきた。だから、常に不安定であり、今も不安定だ。
 
4.誰かに喜ばれる仕事を創造する 
 
 さて、ここで幸せについて考えたい。仕事と幸せは別物だ。忙しく充実していることと、幸せとは違う。幸せは刺激とは反対のことだと思う。
 もっとも、この考えは年齢によって変わる。私も若い時には、刺激を求めていた。普通のこと、平凡なことなんてまっぴらだった。刺激の中にこそ、幸せがあると感じていた。
 しかし、歳を経るに従い、あらゆる刺激は弱くなっていく。最早、刺激的な尖った仕事は回ってこない。それは若い世代の仕事だ。
 弱い刺激の中で、ほのぼのと充実している幸せがあるのではないか。最近は、そんなイメージが浮かんでいる。
 幸せの前に不幸にならないこと。嫌なことはやらない。嫌な人とは付き合わない。命令されること、強制されることはやらない。
 好きなこと、面白いことだけで生活を維持する。それが不幸ではない最低条件だ。
 不幸ではない生活を淡々と過ごすのも幸せにつながる。お金があれば使うが、なければ使わなければいい。
 幸せとは生活の維持を超えるところにある。社会に求められる仕事、感謝される仕事を自ら創造する。これは意外に難しい。
 与えられた仕事は、必要な仕事だ。お金になるし、誰かのためにはなる。
 しかし、創造した仕事は誰の役にも立たない可能性がある。お金にもならないことを、勝手に考えて勝手にやるだけだ。
 それが、本当に誰かの役に立って、喜ばれたら、幸せな仕事ではないか、と思う。
 そして、幸せな仕事をして、毎日を過ごすことができれば、それは幸せな暮らしにつながるのだろう。

*有料メルマガj-fashion journal(456)を紹介しています。本論文は、2020.8.17に配信されたものです。リアルタイムでの講読をご希望の方は、http://www.mag2.com/m/0001355612.htmlよりお申し込みください。  

June 12, 2021

今後、YouTubeはどうなる? j-fashion journal(427)

1.素人からプロへ

 これまでYouTubeの主役は素人だった。素人がオモシロ動画を上げて、視聴者を集め、広告収入を得た。次第に広告収入は上がり、月100万円以上、1000万円以上稼ぐ者も現れた。今では、小学生のなりたい職業のトップに「YouTuber」が上がっている。自分の好きなことをして、億万長者になれる理想の職業というわけだ。
 しかし、素人がYouTuber成り金になるのは困難になってきた。YouTubeが金になると分かった芸人や芸能人が次々とYouTuberに参入している。テレビで顔を知られている芸能人なら、瞬時に万の単位のチャイネル登録を集め、視聴回数を稼ぎ出すだろう。
 こうなっては、素人の出番は減少の一途となる。素人によるYouTuberシーズン1は終了し、プロの出演者によるシーズン2が始まろうとしているのだ。

2.Google先生からYouTube先生へ

 少し前までは、「分からないことがあったら、Google先生に聞いてみよう」と言っていた。Google検索は、参考資料を提示してくれる。
 最近はYouTube先生の方が人気が高いようだ。YouTubeで、検索すると、テキストの資料ではなく、本物の先生が出てきて教えてくれる。
 魚の捌き方から寿司の握り方。面接試験のコツやスマホ動画の撮影方法。投資信託から不動産投資まで、どんな課題でも検索するだけで、先生が現れて講義をしてくれる。
 経済学でも社会学でも数学でも考古学でも古典的なものから最新のものまで揃っている。英会話も中国語会話もフランス語会話もOKだ。
 教育は、今後もYouTubeの有望なコンテンツだろう。
 
3.翻訳+YouTubeでインバウンド対策
 
 翻訳サイトとYouTubeを組み合わせると、更に世界が広がる。インバウンドビジネスをするなら、「東京で行くべき○○の店」を英語に翻訳し、YouTubeで検索するといい。
 世界各国のYouTuberが沢山の店を推薦している。これらを観るだけで、外国人にウケテいる店が分かるし、自分の店を改善する方法も見えるだろう。
 更には、同様の動画を撮って、アップすることもできる。
 コメントを受け付けているのなら、自分の店を売り込んでもいいかもしれない。または、Facebookで顧客となるような趣味のグループに入ったり、個人を検索して連絡を取ってみても良いだろう。
 
4.様々なプロモーション動画

 映画予告編は最高にカッコいいPV(プロモーションビデオ)だ。音楽コンテンツのPVも素敵だ。RTまでのPVはカッコイイものだった。
 しかし、実はあらゆる商品やサービスのPVが可能だ。
 例えば、そば屋さんが、「ダシを作りながら、季節限定の蕎麦を紹介するビデオはどうだろう。もっと単純に、暖簾の前でオヤジさんと女将さんが「おはようございます。今日も○○庵にてみなさまのご来店をお待ちしています」と声を揃えて挨拶する動画を毎日アップする。あるいは「そば粉の値段が上がって困っています」「アルバイト募集中です」など、一言だけの動画を撮る。
 自慢したいことがあれば、動画で自慢する。困ったことがあれば、動画で「助けてくださ~い」と訴える。
 そして、リンクをツイッターやfacebookに流す。これだけでも、企業や商品をPRすることができるのである。

5.YouTubeをどのように活用するか?

 YouTuberが今後も稼げるのか、という問題と、YouTubeが今後どのように発展していくかは全くの別問題だ。今後のYouTubeの発展を考えると、YouTuberが邪魔になる時代も来るのではないか。お金を稼ぐ手段としてのYouTubeのイメージが強くなり、新しい用途の発展を阻害するかもしれないからだ。
 例えば、視聴者数は少なくても、営業ツールとして動画を活用することもできるだろうし、商品説明の動画を上げ、それを販売スタッフに勉強させることもできる。
 アパレル業界でも、コレクションや展示会を動画で上げたり、デザイナーがテーマを説明したり、パターンナーが着心地について解説すれば、これまで以上の情報が顧客に訴求できるし、より深いマーケティング戦略が取れるだろう。
 SCテナントで広い面積を持て余しているならば、自撮スペースを作り、試着した動画をアップしてもらうのも良いだろう。
 自由に顧客にも積極的に動画を上げてもらうことで、コミュニティも生まれるかもしれない。
 顧客がいなければ、販売スタッフが順番に撮影して動画をアップすればいい。
 YouTubeがどうなるかは結果問題であり、我々がYouTubeをどのように活用していくかが問われている。何といっても、無料なのだから。

*有料メルマガj-fashion journal(427)を紹介しています。本論文は、2020.1.27に配信されたものです。リアルタイムでの講読をご希望の方は、http://www.mag2.com/m/0001355612.htmlよりお申し込みください。

IR法は第二のリゾート法になるのか? j-fashion journal(426)

1.IR法とは?

 統合型リゾート(英称:Integrated Resort、略称:IR)とは、国際会議場・展示施設などのMICE施設、ホテル、商業施設(ショッピングモール)、レストラン、劇場、映画館、アミューズメントパーク、スポーツ施設、温浴施設などと一体になった複合観光集客施設のこと。日本においては、地方自治体の申請に基づきカジノの併設を認める区域を指定して設置される予定である。[出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』]

 ついでに、リゾート法についても復習してみよう。これもWikipediaから。

 総合保養地域整備法(そうごうほようちいきせいびほう)は、リゾート産業の振興と国民経済の均衡的発展を促進するため、多様な余暇活動が楽しめる場を、民間事業者の活用に重点をおいて総合的に整備することを目指し、1987年に制定された法律である。通称リゾート法。

 1987年はバブルの最盛期であり、余剰資金が大量にリゾート開発につぎ込まれた。しかし、バブル崩壊と共に、多くの第三セクターによる運営会社は破綻し、巨額の資金が消失してしまった。
 当時の計画は画一的だった。山間地ならスキー場・リゾートホテル・ゴルフ場、海洋リゾートならマリーナ・海を望むゴルフ場・リゾートホテルといった、「3点セット」に終始した。しかも、ターゲットは日本人であり、日本人には長期滞在型リゾートという習慣はなかったし、バブル崩壊と共に経済的余裕もなくなった。
 今回のIR法は、外国人観光客が主なターゲットである。しかし、カジノ以外の施設は、日本人が使わない限り持続しないのではないか。
 政府主導で地域が盛り上がり、国民は冷めている。この状況はリゾート法と似ており、再び同じ失敗を繰り返し、巨額の資金がどこかに消えていくのではないか。そんな気がしている。
 
2.マーケティング不在のリゾートプロジェクト

 政府主導プロジェクトの特徴の一つは、完全なプロダクトアウトであり、顧客ニーズを無視していることだ。法律を整備すれば、自分たちが立案した計画通りに動くと信じている。徹底的にマーケティングの視点が欠如しているのだ。
 バブル当時でも、日本人は長期滞在型リゾートを望んでいなかった。
 一カ所に留まって長期間の休暇を過ごすのは、欧米人のライフスタイルだ。狩猟や遊牧で生活している人にとって、最高の休暇は一カ所に滞在して、何もしないことだ。
 一カ所に縛られている農民的なライフスタイルを持つ日本人の休暇は、物見遊山だ。旅行をして、観光地を回り、温泉につかり、美味しい料理を食べて、酒を飲む。これが日本人の休暇スタイルなのだ。
 さて、日本に来る外国人観光客は何が目的だろう。果たして、統合型リゾート施設を利用するのか。カジノで大金を使うのだろうか。
 
3.カジノってダサくない?

 カジノはヨーロッパ起源とされる。ルイ15世の時代にフランスにおいて、カジノの元となる上流階級向けや庶民向けの賭博場が広まった。
 アメリカでは1931年にネバダ州で合法化され、1940年代にはラスベガスがカジノの町として急速に発展した。
 カジノは欧米起源の富裕層向けの賭博場である。ヨーロッパには格式の高いカジノがあり、ネクタイ着用などの服装規定が定められている場合も多い。
 カジノで使われているにルーレットは19世紀初めにフランスで生まれた。スロットマシンは19世紀末のアメリカ生まれだ。ブラックジャックは16世紀後半のフランスで流行したヴァンテアンというゲームが起源とされる。
 もし、観光資源というなら、今更、黴臭い欧米式クラシックなカジノを作る意味はないのではないか。
 欧米式のカジノでは、ラスベガスやマカオとの差別化もできず、機械、運営等でも外国資本の企業が主役となるだろう。なぜ、日本が税金を投入して、外国企業の賭博場の器を作らなければならないのか、理解に苦しむ。
 
4.どうせなら日本製カジノを世界に! 

 現在、日本で認められている賭博は、公営ギャンブルのみだが、実質的にギャンブルに近いゲームとして、パチンコ、パチスロ等が上げられる。パチンコがギャンブルではないという根拠は、現金を受け取るのではなく、景品を受け取り、それを売却するという手続きが介在していることにある。
 多くのギャンブルが技術革新に取り残されている中で、パチンコは様々な技術を取り入れ、アニメやゲーム等の要素をテーマにして多様な進化を遂げている。
 もし、日本の伝統文化を取り入れた賭博場を作るのなら、博徒、やくざのイメージを払拭し、豪華な伝統工芸、伝統芸能の要素を取り入れたエンターテインメントと、日本の伝統的賭博である手本引き、花札、サイコロ等の博打を洗練させたものにして提供するのはどうだろうか。
 そうすれば、他国の競合カジノとの差別化もできるし、魅力的な観光資源になるだだろう。
 そして、このオンリーワンの日本式カジノを世界に輸出することも可能かもしれない。これなら、日本企業の利益につながる。
 税金を投入するなら、外国企業の利益ではなく、国内企業の利益を考えるべきだと思う。
 一番良いのは、カジノや賭博場を日本から追放し、賭博以上の楽しみを提供することなのだが・・・。

*有料メルマガj-fashion journal(420)を紹介しています。本論文は、2020.1.20に配信されたものです。リアルタイムでの講読をご希望の方は、http://www.mag2.com/m/0001355612.htmlよりお申し込みください。

April 02, 2021

陰謀の時代からフェイクの時代へ j-fashion journal(413)

1.デジタルな嘘

 デジタルの特徴の一つは、コピー&ペーストができること。簡単にコピーができるし、簡単に修正ができる。つまり、簡単に嘘が付けるということ。
 写真や音声が証拠として認められていた時代に、デジタル技術を駆使することができれば、全てのアリバイも証拠も捏造できたはずだ。
 アナログの時代、嘘をつくのは大変だった。全てに辻褄を合わせるには、膨大な作業が必要だ。それでも、嘘を必要ととする人がいて、大がかりな陰謀が行われた。
 ところが、デジタル技術により、誰でも簡単にフェイクニュースを流せる時代になった。陰謀の価値は相対的に下がり、陰謀はコモディティ化してフェイクになった。真実を伝えるニュースにも、「フェイク」というレッテルを貼られるようになって、最早、何が真実で何が嘘か分からない。しかも、一度交わした約束さえ守られる保証はない。私たちはそんな時代に生きている。
 
2.フィクションの世界に生きる

 私たちの世界はノンフィクションからフィクションへと変化している。何が真実か分からないなら、最初からフィクションと考えておいた方が良いかもしれない。
 私たちは、小説、映画、アニメ、ゲームの世界に生きている。実際、eスポーツの登場で、家に引きこもってゲームをしている人と、リアルな世界に生きている人の差は消えてしまった。二次元のゲームがビジネスに直結したのだ。
 歴史もフィクション、政治もフィクションという世界の登場人物として生きていくにはどうすればいいのか。フィクションの世界に転生するというアニメでは、その世界全体のプログラムを超越することがテーマになっている。その生き方はリアルな世界そのものだ。
 フィクションの世界でも、行動することで周囲に影響を与えることができる。それにより、自分が生きやすい環境を作れるのだ。最早、歴史も政治も関係ない。自分の周囲の環境を自分で整備する。そして、自分で生きていく。巨大な世界に所属するのではなく、巨大な世界を自分の中に取り込んでしまう。そして、常に自分自身を見つめ、自分自身の変化に反応する。自分自身が世界であり、宇宙である。そういう意味では、宗教的な時代なのかもしれない。 
 
3.AIとロボット

 デジタルによって、コピー&ペーストが可能になった。究極のコピー&ペーストがAIとロボットではないか。脳のコピーがAIで、人体のコピーがロボット。AIの普及で人間の仕事がなくなると嘆きつつ、AIは慢性的な人手不足の解決策として期待されている。誰も本当にどうなるのかは分かっていない。
 AI搭載のドローンは、安価で効果的な兵器として期待されている。小説の世界では、ロボットは人間を襲わないようにプログラムされているが、AI搭載兵器は人間を襲うために作られている。もし、これが普及すれば、ターミネーターの世界が現実化する。機械はセンサーで人を見つけ、殺し回るだろう。お掃除ロボットのように、バッテリーが切れれば、自動的に基地に帰って充電する。そして出動して人を殺す。サスティナブルな戦争。そんな世界を拒否するために、私たちは何をすればいいのか。
  
4.AIデトックス

 無人兵器による虐殺は、最早、戦争ではない。国対国ではなく、機械対人間の戦いになるからだ。その前にAIの是非も問われるかせしれない。AIの能力が人間の脳を超えた時、何が起きるか分からない。少なくとも、人間がAIを理解できなくなる。そうなると、信じて良いのか悪いのかも分からなくなる。AIが論理的に嘘をつくかもわからない。それが正しいのかも証明できないからだ。
 これは、冒頭に述べたフェイクの時代を更に強化することになるだろう。私たちに勇気があれば、どこかのタイミングでAIの活用に大きな制限を加えるだろう。あるいは、一定以上の性能のAIを規制するかもしれない。
 人間の脳はAIに勝てないかもしれない。人間の身体もロボットに勝てないかもしれない。しかし、これはデジタルの評価である。個々の要素は機械の方が優秀かもしれないが、総体としての人間は機械に勝てる可能性があるのではないか。というより、勝つ必要もないだろう。個々の要素を追求し、勝負をするという生き方ではなく、全体で考え、全体の幸せを考えていく。相手を殺すのではなく、活かすことを考える。そして共に生きていく。そんな思想が必要なのではないか。

*有料メルマガj-fashion journal(413)を紹介しています。本論文は、2019.10.21に配信されたものです。リアルタイムでの講読をご希望の方は、http://www.mag2.com/m/0001355612.htmlよりお申し込みください。  

武道とスポーツについて考える j-fashion journal(411)

1.粗食で持久力を保つ

 明治の頃、日本に来た外国人が車夫のスタミナに驚いたそうだ。何を食べているのかと思ったら、麦飯と梅干しだけだった。「こんな食事でこれだけ走れるのだから、肉を食べさせれば、どれだけパワーが出るだろう」と無理やり肉を食べさせた。すると、途端に走れなくなった。車夫は「お願いだから、いつもの食事に戻してくれ」と嘆願した。元の食事にしたら、再び驚異的なスタミナを取り戻したそうだ。
 当時の日本人は草食動物に近く、肉食動物の欧米人とは消化吸収や運動のメカニズムが違っていたのかもしれない。
 当時の日本人の身体の使い方は現代とは異なっていた。重心が低く、地面にしっかりと両足が着いている。朝から晩まで畑仕事をしたり、朝から晩まで人力車を引く仕事は、何より持久力が求められた。しかも、粗食でそれを可能にしなければならない。大きな筋肉は効率が悪いし、体重が増えれば持久力を維持できなくなる。
 現在のスポーツ競技はタイムや勝負にこだわる。効率は関係ないし、持久力も必要とされない。競技の時だけ最大のパフォーマンスを発揮すればいいのだ。
 それに対して、昔の日本人は生活に必要な身体を持っていた。筋肉に負荷を与えて筋繊維を太くする筋力トレーニングは、昔の日本人にとって意味のないものだったのだ。

2.遊牧民と農耕民の戦と武器

 チンギスハーンの時代、遊牧民族の戦争は敵を殲滅するものだった。女子供は活かしておいても、成人の男性は殺してしまう。敵の男を生かしておいては、再び敵になる可能性があるばかりで、何のメリットもない。
 一方、農耕民族の戦争は、農民を殺さない。農民を殺したら、食料が確保できなくなる。
 日本の戦国時代も、農民は戦(いくさ)見物に出かけたそうだ。安全な場所から戦を見物し、戦が終われば武者狩りをする。ある意味で、戦は農民の娯楽でもあったのだ。
 日本の戦は敵が降参すれば終わる。敵を全て殺すことはない。敵の中に優秀な人材がいれば、自分の部下に加える。その意味で、武士はプロフェッショナルな存在だった。自分の能力を主君に売っているのであり、主君に依存しているわけではない。(しかし、長く太平の時代が続いた結果、武士も官僚的になり、儒教的なつながりが強くなったようだ)
 日本の武士は領民を大切にした。大切にしなければ、農民は領地から逃げ出してしまう。
 戦は殺し合いの場であると同時に、各藩の文化や技術、経済力の発露でもあった。城、馬、甲冑、武具や馬具を競い合う。それらで圧倒すれば、戦わずして城を取ることもできた。
 日本刀を作る製鉄技術は、そのまま農耕具に生かされる。強い鉄を作れば、農業の生産高も上がるからだ。
 日本人の体型にあった軽くてしなやかで切れ味鋭く折れない剣。それを使いこなす体術は、農耕作業と同様、腰と体幹を使う。農民の作業と剣を扱う身体の使い方には多くの共通点がある。
 もし、日本が遊牧民族ならば、人口を増やさず、飛び道具が発達しただろう。鉄砲が伝われば、弓矢の代わりに鉄砲を使ったはずだ。
 鉄砲は敵を殲滅するのに適しているが、農耕民である日本人の日常生活と乖離している。製鉄文化とは異なる火薬文化は、日本人の戦(いくさ)観には合わなかったに違いない。その証拠に、太平の時代になると、日本人は鉄砲を捨てて、日本刀を帯刀することを選んだ。そして、日本刀は芸術品のように、職人の技術で彩られた。実用品ではなく、精神的アイテムなのだ。
 
3.日本刀のクールな美意識
 
 日本の武道は、太平の世になって、槍や薙刀から日本刀に集約されていった。
 素手の柔術も日本刀を持つ相手を素手で制する技だし、棒術や杖術も日本刀を棒で制する技である。常に中心には日本刀がある。
 日本刀は、よく切れる大きな包丁である。力いっぱい叩いても切れない。当てて引く、あるいは当てて押すことで切れる。日本刀で切る技は、料理人と同じで、腕力は必要ない。筋力を付けすぎると、動きが鈍くなるし、疲れやすくなる。
 筋力よりも、相手の心理を読み、相手の動きを予測して、しなやかに動くことが求められた。その意味で、剣術は心理戦である。相手に油断させるために、最初から身体に力を入れない。力を抜いて、相手が気がつかないうちに刀を抜く。表情に出さず、殺気も感じさせず、相手にアドレナリンを分泌させることもなく、命を奪う。日本刀には、そういうクールな美意識がついて回る。
 更に進めば、切らずに相手を降参させる。切ろうとしても切れない。互いににらみ合いながら、隙を見つけられずに時間が過ぎる。やがて「勝負は後日改めて」ということで分かれる。これが理想の剣だ。人を殺さない剣である。
 ここまで来ると、精神力の勝負になる。高齢になっても、相手を圧倒する。筋力の勝負ではなく、精神と身体、全人格的な勝負になる。
 
4.現代人にも古武道を 
 
 日本刀を基本にした古武道は日本人に合っている。日本人の心理、日本人の体型、日本人の食生活等とマッチしている。
 但し、日頃の修練が欠かせない。無理をして筋肉を痛めつけるのではなく、前身の筋肉をバランス良く使うことで、疲れずに全身を鍛える。無理をしないので、故障することがない。非常に合理的な動きである。
 古武道家の甲野善紀氏は、身体の動かし方は、「溜めず、捻じらず、うねらない」が基本だという。歩く時も踵を上げずに、足裏全体を上に上げる。現代人の動き方とは全く発想が異なるものだ。
 現在、身体を鍛えるには、スポーツや筋トレが一般的だが、私はそこに古武道を加えるべきではないか、と思う。

*有料メルマガj-fashion journal(411)を紹介しています。本論文は、2019.10.7に配信されたものです。リアルタイムでの講読をご希望の方は、http://www.mag2.com/m/0001355612.htmlよりお申し込みください。  

February 10, 2016

なぜ、日本の大学教授の講義はつまらないのか? j-fashion journal(184)

1.教師は甘やかされている

 私は留学経験はないが、アメリカの大学の講義の方が日本の大学の講義より面白いと思っている。Youtubeでいくつかの公開講座を聞いたのだが、とてつもなく面白いのだ。勿論、花形講師だとは思うが、とにかく意味が分からなくても面白いのだから凄い。意味が完全に分かったら、腹を抱えて笑えるに違いない。
 ある意味で、お笑い芸人より面白い。なぜなら、意味のある笑いだからだ。「ギャグ」と称して、笑う約束を決めて演じても、ちっとも面白くない。それなら、落語の方が面白い。ストーリーがあるし、笑いもある。そう、アメリカの大学講座は落語のようだ。笑いながら飽きずに聞いていて、終わると、何かしっかりしたものが頭の中に残っている。
 自分が書いた教科書、あるいは他人が参考書籍を単純に読むだけの講義とか、何十年も変わらない板書をする講義はつまらない。いや、つまらないどころか、馬鹿にされていると感じてしまう。『お前らは、この程度の講義で十分なんだ』という暗黙の声が聞こえてくるからだ。

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