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November 21, 2019

平成元年に予測できなかったこと j-fashion journal(388)

1.平成元年に起きたこと

 平成元年は1989年。その年に起きたことを振り返ってみたい。
 1月7日に昭和天皇が崩御され、翌8日に平成の年号が発表された。今回のような晴れやかな改元ではなく、喪服に身を包んでの悲しい改元だったことを覚えている。
 2月14日、グローバル・ポジショニング・システムに必要なGPS衛星24機が地球周回軌道に投入される。これが後に、カーナビやポケモンGOにつながっていく。
 3月2日、欧州経済共同体加盟12カ国が、20世紀末までにフロン類の生産を禁止することで合意する。オゾン層の破壊という新たな環境問題が提起され、地球単位の環境保護という概念が生まれた契機になった。
 4月21日、 任天堂の携帯型ゲーム機「ゲームボーイ」(GAME BOY) が日本で発売開始される。持ち歩いてゲームをするというスタイルは、その後スマホの登場で更に加速された。
 6月4日、北京で天安門事件が起きる。一時的に日本企業はポスト中国に動いたが、結局中国生産に回帰した。
 6月18日、ミャンマーの軍事政権が同国の英語国号を「Burma」から「Myanmar」に改称した。当時は、チャイナプラスワンでミャンマーが注目されることなど想像もしていなかった。
 10月31日、三菱地所がアメリカのロックフェラー・センターを買収。バブル経済を象徴する事件だった。当時は、日本の地価の合計でアメリカが二つ買えると言われていた。
 11月9日、中国共産党中央委員会第5回全体会議で鄧小平中国共産党中央軍事委員会主席の辞任と、江沢民中国共産党総書記の就任が発表される。ここから中国の経済発展は一段と加速し、2010年にはGDPが日本を抜き、世界第二位の経済大国となった。2017年には、日本の二倍以上の規模に成長した。
 11月10日、ベルリンの壁崩壊。東欧諸国が次々と共産党政権が崩壊し、民主化が進んだ。
 12月3日、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領とソ連のミハイル・ゴルバチョフ最高会議議長がマルタ島で会談し、冷戦の終結を宣言した。
 12月29日、日経平均株価が史上最高値の38,957円44銭(同日終値38,915円87銭)を記録した。ここがバブルの絶頂期である。
 
2.バブル崩壊以降の長期低迷

 バブル絶頂期の平成元年から、バブル崩壊の平成3年までは絶好調が続いた。バブル崩壊後もその余勢で3~4年は消費も堅調だったように記憶している。
 そして、そのまま右肩下がりに転じていく。それでも、当時は数年で景気回復が可能だと考えられていた。
 実際にはバブル景気が異常だったのだ。そして、パブル崩壊の経験は日本企業、日本人を消極的にしていった。リストラが始まり、新卒採用が制限され、企業に対する忠誠心ば瓦解していった。
 それまでの日本企業の強みのほとんどが失われ、その代わりとなる新しい強みは見つからなかった。
 残念ながら、平成元年の時点ではここまで日本経済の低迷が続くとは誰も予測できなかったのである。
 
3.百貨店の衰退

 バブル崩壊後、ファッション業界には二つのブームがやってきた。
 一つは、中国生産による激安ブーム。もう一つは、円高で安くなったラグジュアリーブランドブームである。
 中国生産を活用して最も破壊的なMDを展開したのがユニクロだった。ユニクロの価格設定のおかげで、アパレル商品の価格水準が大幅に低下。特に、ボリュームゾーンの専門店チェーンは価格競争に破れて淘汰された。最早、問屋から仕入れる形態では勝負にならなくなったのだ。
 百貨店の特選売り場で販売されていたラグジュアリーブランドは百貨店のファサードを占領するようになった。百貨店の顔はラグジュアリーブランドとなり、ラグジュアリーブランドが集客した顧客は百貨店内部を回遊することはなかった。
 やがて、百貨店はユニクロをテナントとして誘致するようになった。
 百貨店自主MDの挑戦は結局失敗した。最終的に、百貨店はギンザシックスのようなテナントビルとして生き残るか、インバウンドの顧客を対象に観光拠点として生き残るしかないのかもしれない。
 平成元年の時点で、三越と伊勢丹が合併したり、西武とそごうが合併し、更にイトーヨーカ堂グループの傘下に入ることは予測できなかった。

4.ファッション市場の衰退

 平成になって、アパレルの主役は問屋から小売店へと交代した。問屋と小売店のコストを価格に乗せることは難しくなり、小売店が商社を通じて中国の工場から商品を仕入れることになったからだ。
 世界的にもファッション市場は動いていった。先進国から周辺の新興工業国に生産拠点が移り、先進国の製造業は空洞化した。そして、豊かになった新興工業国には膨大な中間層が生まれ、ファッションを楽しみたいというニーズが高まった。そこで登場したのが、低価格でも素早くトレンドを取り入れた商品を展開したファストファッションである。
 更に、先進国ではファッション離れが進んだ。インターネットの通信費、パソコンや携帯、スマホに支出する金額が増え、ファッションはファストファッションで十分と考える人が増えたからだ。
 海外生産の低価格商品が普及し、商品の単価が下落した。物価の下落は、市場を縮小させ、給料も上がらなくなった。低価格商品しか売れなくなり、ますます価格は下落し、市場が縮小するというデフレスパイラルが始まった。
 単価の下落した分を数量でカバーしようとしたが、それが在庫過多となり、衣料品の大量廃棄は資源の無駄遣いとして批判されるようになった。

5.SNS普及とメディアの変化

 日本でインターネット接続が始まったのは、平成4年(1992年)だった。世界で初めてWEBが作られたのは平成3年(1991年)、日本で初めてWEBが作られたのが平成4年(1992年)。誰もが出版社、放送局を持てる時代が到来したと言われた。
 と言っても、WEBは企業が主体であり、個人の利用はブログの登場を待つことになる。平成14年(2002年)頃から、日本でブログが急速に普及する。
 ツイッターのサービスが始まったのは平成18年(2006年)、平成20年(2008年)に日本語版のサービスが始まった。
 フェイスブックは平成16年(2004年)に創業。平成20年(2008年)に日本語版のサービスが始まった。
 SNSの普及は世界を大きく動かした。平成22年(2010年)12月18日に始まったチュニジアのジャスミン革命から、アラブ世界に波及した「アラブの春」はSNSの果たした役割も大きかったと言われている。
 平成26年(2014年)に独立を宣言したISILも、インターネットなどによるプロパガンダを行った。WEBやSNS、動画共有サイトなどを利用して、世界各国から若者を兵士として募った。
 アメリカのトランプ氏もSNSを最大限に活用し、大統領になった。彼は既存のメディアをフェイクであると断じ、ツイッターを通じてダイレクトに情報発信を行っている。
 SNSの普及により、新聞、雑誌、テレビなどのメディアは影響力を弱め、淘汰の危機に瀕している。ビジネスも政治もファッションもSNSを軸に回っているのだ。

6.オタク文化がメジャーに

 オタクという言葉は、70年代に生まれた昭和の言葉だ。もちろん、平成元年にもオタクは存在している。しかし、当時はオタクと聞くと、「社会に同調できず、特定の仲間とアイドルやマンガ、アニメなどについて、電子掲示板等で語り合う人」、「健全な男女の交際ができない大人になれない精神的に未成熟の人」「変態に近い気持ち悪い人」というマイナスのイメージが強かった。
 それが平成の間に熟成し、グローバルに拡大した。海外の人にとって「オタクは一つのことに強い興味を持つ純粋な人」であり、自ら「私はオタクです」と胸を張る人も少なくない。
 また、キリスト教的価値観、西欧的価値観でタブーとされている暴力やロリータ趣味、ゴスロリなどを認める日本をクールと評価するようになった。
 元々、日本国内でもマンガ、アニメ、ゲーム、フィギュア、ストリートファッション、ビジュアル系ロックなどは、良識ある大人からは眉を顰められていた。しかし、海外から評価されて、次第に文化として認識されるようになった。
 最早、オタク文化は日本を代表するポップカルチャーであり、その市場は拡大し続けている。同時に、マンガやアニメにより日本を知り、日本に憧れる外国人も増えている。マンガ、アニメは日本文化を紹介するメディアとしても機能しているのだ。

7.ゲームカルチャーとeスポーツ

 任天堂フアミコンが発売されたのは、1983年、昭和58年である。それ以前の任天堂は花札のメーカーとして知られていたが、ファミコン以降、世界市場に進出し、世界のトップ企業に成長した。
 ゲームは遊びではなく、ストーリーを体験するメディアとなり、ゲーム体験は同世代に共通する文化体験となっている。ゲームは、小説や映画の機能を獲得したとも言えるだろう。
 シューティングや格闘技のゲームは、反射神経と運動神経を競い合うものでもあり、それがeスポーツへと発展した。今後も更なる発展を遂げるだろう。瞬発力を競うゲーム、持久力を競うゲーム、記憶力、表現力など、人間が持つあらゆる機能を競い合うことが可能になるからだ。
 令和の時代に、オリンピック種目になることは間違いないし、eスポーツだけのワールドカップが開催されるかもしれない。
 
8.日本再発見とインバウンドの増加

 平成元年の頃、日本はバブル経済の真っ只中で、世界中の不動産、美術品、ブランド商品を買い漁っていた。当時の日本、日本人は傍若無人の成り金として嫌われていた。
 経済成長が止まり、バブル崩壊を経験し、日本人が謙虚さを取り戻した頃から、日本人の若者の評価が変わってきた。お金持ちで、礼儀正しく、センスの良い東洋人。それが日本人だった。
 1970年代、80年代生まれの世界中の若者は日本のアニメを見て育った。日本の放映が終わったアニメ作品を格安で海外に輸出したためだ。
 アニメの中には日本の風習、文化、生活が紹介されていた。日本のお弁当、ランドセル、どら焼、コタツ、押し入れなどをアニメで知り、そこから、日本語や日本の音楽に興味を持ち、大人になってから日本に旅行するようになった。
 更に、寿司などの日本料理人気や円安の為替も追い風になった。中国、タイ、韓国、台湾などの中間層が増加し、日本へのビザ取得条件も緩和された。日本に来てみると、日本人は親切で、日本の都市は清潔で安全だった。日本で販売されている製品は品質が良く安価だった。それらがインターネットを通じて、拡散し、加速度的にインバウンドが増えた。
 平成元年の頃は、アウトバウンドが主流であり、インバウンドは珍しかった。それが逆転するとは予想もしていなかった。 
 
9.スマホとクラウドの進化

 平成元年にはインターネットもなかったのだから、その後のスマホやクラウドについて予測できなかったのも当然だろう。
 スマホの凄さは、個人に高性能のデジタル端末を安価で配布したことだ。これにより、市場の分母が一気に広がり、アプリ、広告、ゲーム等のビジネスが発展した。
 加えて、ネット回線が高速になり、クラウド上のサーバーの活用が広がった。音楽や映像のダウンロードも可能になり、パッケージ販売からダウンロード販売へと、音楽ビジネスが大きく変化した。
 高性能のデジタルカメラを一般の生活者が持ち、様々な画像がSNSにアップするようになり、新たなメディアが誕生し、旧来のメディアの存在意義が問われた。
 更に、5G回線が普及すれば更なる革新が生まれるに違いない。最早、スマホは生活インフラである。

10.ICT分野における日本と中国

 平成元年の時点では、中国生産は繊維産業が中心だった。日本はICT分野でリードしており、付加価値の低い製造業は中国に譲っても良いと考えていた。
 現在は、繊維関連商品、靴、玩具、楽器等に加え、携帯、スマホ、パソコン、サーバー機器などのICT関連商品の生産でも世界一であり、既に世界の工場として確固とした位置を占めている。
 アメリカは、中国がICT分野でアメリカをリードするのを恐れており、様々な制裁を課しているが、現実には中国の部品や製品がなければ米軍の装備も調達できないところまできている。
 日本の技術は高性能であってもコストが高く、国際競争力がない。そのため、あらゆる分野で中国にリードを許している。
 自動車産業は日本が世界をリードしているが、電気自動車の時代になるとそれも変わるだろう。ドローン、3Dプリンター、自動車の自動運転技術など、新しい分野では中国がリードしているのだ。
 平成の時代に日本はGDPで中国に追い越された。そして、最新分野でもリードを許そうとしている。これも全く予測できなかったことだ。
予測できてもできなくても、現実は目の前に存在している。次の時代は現在の現実の上に積み重なっていくのだ。

*有料メルマガj-fashion journal(388.389)を紹介しています。本論文は、2019.4.29~5.6に配信されたものです。リアルタイムでの講読をご希望の方は、http://www.mag2.com/m/0001355612.htmlよりお申し込みください。  

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