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June 11, 2014

ヒッピーとカウンターカルチャー j-fashion journal(107)

1.ベトナム戦争とヒッピー

 第二次世界大戦後の国際社会は、アメリカを基本に回ってきた。アメリカは自由と希望と正義の象徴だった。そのアメリカが行き詰まったのがベトナム戦争(1960年~75年)だ。軍事大国アメリカが東南アジアの小国であるベトナムとの戦争で苦戦することなど、誰が予想しただろうか。
 ベトナムはゲリラ戦で戦った。女性や子供のゲリラ兵は一般市民に混ざり、アメリカ軍を攪乱した。アメリカは無差別爆撃、枯葉剤投与を行ったが、最終的には武力制圧を諦め、停戦に応じることとなった。アメリカにとっては実質的な敗戦と言ってもいい。
 ベトナム戦争の報道写真や紹介記事は、アメリカの正義を疑うに十分だった。世界中で反戦運動が起こり、アメリカに象徴される資本主義社会や文明社会そのものに背を向ける若者たちが世界中に生まれた。それがヒッピーである。

 ラブ&ピース、音楽とセックスだけあればいい。髪と髭を伸ばし、世界中を放浪し、独自のコミューンを創り出した。
 ヒッピームーブメントは、戦後最大のカウンターカルチャーだった。既存の権力に対抗し、国家という枠組みを否定し、既存の価値観そのものを否定したのである。
 ヒッピームーブメントの主役は、戦後ベビーブーマーである。戦争を知らない世代であり、戦後のアメリカを主体とした新しい世界観を信じてきた世代でもある。
 日本では、60年安保からベトナム反戦運動、そして過激派という武力闘争の流れと、ビート族、フーテン族と呼ばれた厭世的な流れが生まれた。フーテン族の最盛期は1967~68年の新宿である。
 その後、シンナー吸引等が問題になり、取り締まりが強化され、フーテン族は姿を消した。そして、ヒッピーは単なるファッショントレンドになってしまった。
 1970年には大阪万博が開催され、日本経済は高度経済成長に沸き返った。最早、学生運動もヒッピーも記憶の彼方へ押しやられ、団塊の世代は企業社会に組み込まれていった。
  
2.日本とカウンターカルチャー

 日本には、ヒッピーは定着しなかった。しかし、「既存のものを否定してもいい」という概念は一時的にせよ市民権を得た。また、「既存のものを否定することから、新しい価値観が生まれる」という思想を示した。その価値観は、「髪や髭を伸ばして、愛と平和とセックスを信奉する」というものではなかったが、現在の欧米社会の思想が限界に近づいていることを感じさせるには十分だった。
 少々飛躍するが、日本という国は、歴史的に観ても、常に価値観が一つではなく、ダブルスタンダードだったのではないか。
 この世の神とあの世の神。天津神と国津神。古墳と神社。神道と仏教。天皇と将軍。西洋思想と東洋思想。実力主義と縁故主義。あらゆる事象において、統一された原理で動くことはない。
 このことは、日本が西欧より遅れているせいではない。あえて、一つの原理に統一しないことが、日本固有の思想ではないかと思うのだ。
 従って、日本人は、どんな新しい思想でも吸収できる。複数の原理原則になれているからだ。新しい思想が入ってきても、それが全てを統一するということはない。それはそれ、元からあったものはそのまま、という考え方だ。
 悪く言えば、一貫性がない。良く言えば、柔軟な思想体系を持つ。ヒッピー的な世捨て人の生き方も、日本には存在していた。だから、ヒッピーに対しても、それなりに受け止めることができたと思うのだ。
 日本は歴史的にカウンターカルチャーを持っている。というより、一つの原理が全てを支配することを嫌うというカルチャーがある。
 グローバルな視点から日本を見ると、日本が西欧のカウンターカルチャーなのかもしれない。
 一つの原理で動く社会は合理的である。迷いがないからだ。しかし、静物の進化が多様性を求めるように、均一性は環境の変化についていけない。一つの文化、思想が行き詰まった時に、全体が絶滅してしまうかもしれない。
 なぜかは知らないが、日本は昔から二つの原理を持っている。一方が行き詰まれば、もう一方に逃げる。そして、新しい原理を導入し、二つの原理を確保するのだ。

3.カウンターカルチャー、カウンターインダストリー

 私は、あまりに純粋なものを危険だと感じる。純粋な正義も信じられないし、純粋な悪も信じられない。純粋な形や色についても居心地の悪さを感じる。不自然に感じるのだ。
 たとえば、我々は資本主義、市場原理を信奉している。しかし、一方では自給自足の生活にも憧れがある。市場原理も良いが、互助的な共同体も良いと思う。しかし、社会主義、共産主義を強制されるのは嫌だ。あくまで、自分の自由な意志を尊重して欲しい。
 こうした考え方は、あらゆるビジネスにも共通している。私は投資や相場、通貨政策等を純粋で不自然なものと感じる。一部の人間に富が集中することは不自然だ。完璧な平等も不自然だ。世の中、人生を金だけで評価するのも不自然だ。我々はもっと多様な価値観を持つべきではないのか。
 そういう意味では、トレンドとコストだけを追求する、現在のファッションビジネスも不自然だ。ファッションは、もっと多様でなければならない。
 多様な価値観と言っても、それぞれの時代に支配的な価値観ば存在する。その価値観を中心に経済も回っている。その中で、カウンターカルチャー、カウンターエコノミー、カウンターフィロソフィー、カウンターシンキング、カウンターポリティクス、カウンターインダストリー、カウンターファッションを維持することは、健全な社会を維持することにつながると思うのだ。
 私がファッション業界を目指したのも、当時のファッションは時代の最先端であり、時代をリードしていたからだ。重厚長大産業と対極に位置する軽薄短小産業。ファッション産業はカウンターインダストリーだったのだ。
 しかし、現在のファッション産業は資本と規模で競争する当たり前の産業になってしまった。それでいいのか、とという疑問が残る。

4.種の絶滅を防ぐ知恵

 人生も終盤に近づくと、次第に自分の限界も見えてくる。あるいは、日本社会というものも見えてくる。完璧な実力主義でもなく、完璧な平等主義でもない。常に揺れている国。既得権を大切にすることで、安定を図る国。ある意味で良くできているし、ある意味で不完全だ。
 その中で、気の合う人間、価値観を共にする人間と、やりがいのある仕事をしたいと思う。やりがいのある仕事とは、社会的価値があり、同時に自己実現に資する仕事とでも言おうか。
 それを目指すには、ビジョンが必要だ。私の場合、世間の常識とは異なるカウンタービジョンになる。世間の常識とは規模の追求、利益の追求。あるいは、安定と継続。
 ヒッピーは、人生の目標を「愛と平和、自由とセックス」とした。
 戦争は利権から生まれる。利権を否定すれば、戦争は起きない。規模の拡大は、侵略を生み出す。規模の拡大を志向しなければ、侵略する必要もない。
 これを突き詰めれば、経済活動そのものを否定することになる。ヒッピーといえども、それは不可能だ。少なくとも、経済第一主義ではない仕事を選ぶということだろうか。
 「自由とセックス」とは、文明以前の自由な人間を想定したある種の理想像だろう。国にも法律にも制度にも縛られない人間同士のコミュニケーションとコミュニティ。
 これも追求していけば、アナーキーな反社会的な存在として糾弾されるだろう。少なくとも、法律や組織に縛られない生き方をするということだ。
 現在の日本は、一つの価値観で統一しようとする動きがある。こういう時代こそ、カウンターカルチャーが求められるのではないか。これは日本人の本能であり、種の絶滅を防ぐための生物の知恵だと思う。 

*有料メルマガj-fashion journal(107)を紹介しています。本論文は、2013.12.16に配信されたものです。リアルタイムでの講読をご希望の方は、http://www.mag2.com/m/0001355612.htmlよりお申し込みください。

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