My Photo

お知らせ

無料ブログはココログ

« 日本ファッションは日本文化の表現である(上) j-fashion journal(53) | Main | 自民大勝の選挙結果に何を見る? j-fashion journal(55) »

July 05, 2013

日本ファッションは日本文化の表現である(下) j-fashion journal(54)

3.日本の真面目な製造業
 日本のムラ社会には、「阿吽の呼吸」という文化がある。常に相手の気持ちを察し、何も言わなくても相手の気持ちが分かる。そして、相手の気持ちに応えようとする。
 これが悪い方に出ると、「人前で堂々と意見が言えない」「プレゼンテーションが下手」ということになる。良い方に出たのが、日本のモノ作りだろう。
 日本では当たり前なのに、海外の人が理解できないことがある。それは、同じ会社でもないのに、次の工程のことを考えて作業するということだ。日本人は分業でも、次の工程の人が仕事をしやすいように配慮する。「自分が分担している工程を行えばいい」というだけでは半人前という考え方である。各工程で次の工程のことを考えてこそ一人前の仕事。また、前の工程に不具合があれば、自分で修正しようとするし、直せないものは前工程に戻す。本来ならば、それは監督や管理職の仕事であり、各工程の作業者は、前後の工程に関係なく与えられたことだけを行う。しかし、日本では監督者がいなくても、仕事は回っていく。そこが日本的なところなのだ。
 次の工程に迷惑をかけないためには、自分の工程を完璧に行う。少しの誤差やズレでも、そのズレが重なっていけば、最終的に大きなズレになる。各工程が完璧に仕事を行うことが、最終製品の精度を上げることを、各工程が理解しているのである。

 日本の製造業の真面目さは、江戸指し物のようにシンプルで角がきちっと90度、全くすき間のない仕上げに特徴がある。
 中国の工芸品、非常に装飾的で、細かい細工が得意だ。遠くから見ると素晴らしいのだが、近くで見ると、角がずれたりすき間が空いていたりする。日本人は、細部の完璧性を重視する。その代わり、遠くから見ると、何の変哲もないものに見えるのだ。
 こうした日本趣味は江戸時代に完成されている。その細部をきちっと作るこだわりが、日本の製造業を成長させたのである。
 日本の製造業の本領を発揮するのは、素材や部品、加工技術だ。分業構造の中で、各工程が非常に洗練されている。しかし、ブランド開発、商品開発はそれほど得意ではない。細部を完璧にすることで、満足してしまうところがある。
 テキスタイルで言えば、撚糸や糸の密度、組織によって生み出される微細なタッチの差には非常に敏感である。しかし、アパレル製品を購入する時に、最も影響を与えるのは色彩である。本来ならば、テキスタイルで最も優先されるべきは色彩だが、多くのテキスタイルメーカーは色彩にあまり興味を持っていない。「色は指示通り染めればいい」と思っているのだ。確かに、指示通り染色する技術も優れている。しかし、市場が求めている色を自分の判断でつけることは苦手なのだ。
 アパレル分野も同様である。日本の縫製工場の縫製レベルは高い。一つ一つの製品を作る技術は高いが、ブランドを構築するのは苦手だ。
 個々の商品、個別の要素、部品や素材は得意だが、コンセプトを決めるような大きな枠組から固めていく作業は苦手である。日本の技術は、非常にフェティッシュ(物神崇拝)であり唯物的なのだ。
 そもそも日本人にとって、「社会的ステイタス」という概念さえ理解し難いだろう。モノはモノとして独立しているのであり、それを持っているから社会的ステイタスを感じるというセンスは低次元のものと考えている節がある。日本のブランドは、社会的ステイタスを示すものではない。「虎屋の羊羹」のように、あくまでフェティッシュの記号に過ぎない。正に「物神」こそが日本のブランドであり、そこには社会的ステイタスは関与しないのかもしれない。
 その典型が古着ではないだろうか。ビンテージのリーバイスの価値を見出し、高価格で取引を始めたのは日本人の古着フリークだった。オリジナルブランドを作るのは苦手でも、徹底的にモノにこだわり、そこに新しい価値を見出すのは得意なのだ。
 これは、16世紀に朝鮮の庶民が使用していた日用雑器に独自の価値を見出した「高麗茶碗」にも通じるだろう。それを作り、使っていた朝鮮の人達が感じなかったような高い精神性を陶磁器の中に見出し価値を与えた。朝鮮の人達にすれば、日本人の勝手な行為に過ぎない。しかし、その見立てと価値観が歴史的に定着すれば、やはり新たな価値を創造したと言えるのだ。
 このように「日本の技術」の中には、いくつかの特徴的な要素が潜んでいる。それが日本の製造業、モノ作りに深く影響を与えており、それ故に世界の中でも独自な地位を確立したのである。

4.日本のオタク文化が世界に広がる
 オタクという言葉は、元来アニメ・SFのファンに限定した呼称であり、暗に社会性に欠けるというマイナスの意味が含まれていた。現在はマイナスの意味が薄れ、特定のことに集中するマニアックな人を指すようになっている。更に海外では、「特定のサブカルチャーに熱中する純粋な人」というプラスのイメージが含まれているようだ。「私はオタクです」と笑顔で自己紹介する外国人は少なくない。
 また、オタクという場合、熱中の対象はサブカルチャーであることが多い。マンガやアニメが好きで、コスプレ等も楽しむマニアックな人達。そんなイメージだ。
 世界に広がっている「日本ブーム」「日本人気」も多くはマンガやアニメが主役である。
 明治以降、日本人が必死に追求してきた欧米のキャッチアップを評価されたのではなく、日本の伝統文化が評価されたのでもない。日本という国の中核を支えてきた東京大学卒業生が作り出した文化ではなく、大企業が作り出した文化でもない。
 勿論、それらが同居する混沌とした状況も魅力のひとつではある。世界最先端のハイテクと、数百年前から伝承されている伝統工芸や風俗。ヨーロッパの高級ブランドとストリートファッションの共存。そして、独自のマンガ、アニメ、ゲームを生み出したのが同じ国であることは、非常にミステリアスだ。
 アメリカのコミックと日本のマンガは全く性格が異なる。アメリカのコミックは、リアルな時代背景の中に、非現実的な能力を持つヒーローが登場する勧善懲悪ドラマである。ヒーローの設定には独自性があるかもしれないが、少なくともヒーローが活躍する舞台は我々が生活する世界だ。そして、読者として設定しているのは、あくまで子供である。従って、複雑な心理描写や価値観を表現することもなく、ダイナミックに正義の味方が悪をやっつけるというストーリーなのだ。
 日本のマンガの元祖と言われているのは、鳥獣戯画図や北斎漫画である。江戸時代の絵草子は、漫画雑誌に非常に近いメディアだった。日本では、漫画は子ども向けに作られたものではなく、町人の大人を対象に作られたものである。
 戦後はアメリカの影響を受けて、ヒーローものも登場したが、それらはあくまでひとつのジャンルに過ぎない。週刊の少年マンガ誌が創刊された頃から、戦争漫画、忍者漫画、スポーツ漫画、アクション漫画、学園漫画、ギャグ漫画、空想科学漫画等、多彩な漫画が存在していたのである。
 こうした多くの漫画の中から、漫画でしか表現できない作品が次々と登場するようになる。それは、漫画の主人公が登場する世界そのものが創作された漫画である。現在の主流はほとんどがこのタイプだ。
 『聖闘士星矢』『ドラゴンボール』『AKIRA』から始まり、ジブリ作品一連の『天空の城ラピュタ』『風の谷のナウシカ』『千と千尋の神隠し』等々、そして、『ワンピース』『NARUTO-ナルト-疾風伝』・・・。
 こうした数多くの独自の世界観の創造は、一神教の文化からは生まれにくいだろう。日本のアニミズム(精霊信仰)や多神教の伝統、そして現代の欧米文化とのハイブリッドによって生み出された世界観と言っていいのかもしれない。考えてみれば、日本という国そのものがアニミズムと欧米文化のハイブリッドなのかもしれない。
 こうした独自の世界観が世界に受け入れられたことと、オタクが「独自の世界観を心の中に構築した人」として評価されていることは無関係ではないのだ。
 モノ作りの世界では、フェティッシュであり、唯物的な真面目人間の日本人だが、マンガやアニメでは非常に想像力豊かな創造性に溢れている。この両面性を持っていることを、我々はもっと強く意識すべきではないだろうか。そして、そこから、日本オリジナルのファッションが生まれるのではないだろうか。
 
5.「自然との共生」というアイデンティティ
 日本文化の大きな特徴は、その自然観である。
 砂漠や極寒の地域のように厳しい環境で生活する人達にとって、自然は征服すべきものだったろう。また、遊牧民にとって、森に羊を放牧し、森を草原に変えることは、人間が生活できるエリアを拡大することにつながったのかもしれない。そして、熱帯雨林で生活する農耕民は、焼き畑により、森を焼き払うことが生活の糧を得る手段だった。
 日本は一部には厳しい気候もあるものの、全体的には温暖な気候に恵まれた国である。その中で、自然に手を加えながら、人間と動植物が共存できる環境を整備してきた「里山」は、日本の典型的な自然との付き合い方を表現したものだ。 江戸時代の前半までは森林が伐採されたが、1666年以降、幕府は森林保護政策に乗りだし、その結果、日本の森林資源は回復に転じ、里山の持続可能な利用が実現したのである。また、江戸時代には、糞尿を農地に還元するシステムが出来上がり、ある意味で理想的な継続可能なリサイクル社会を実現していた。
 こうした自然観や自然との調和を重視する生活観は、日本文化にも色濃く反映している。
 たとえば、伝統的な邦楽の楽器と西洋の楽器の音を比較すると、邦楽の音は非常にノイズ的である。尺八、琵琶の音、三味線にはあえてノイズを出すような「さわり」が付けられている。篠笛も澄んだ美しい音が出る楽器だが、邦楽ではかすれたような強い音を出す。
 また、西欧のオペラは全身を楽器のように使い、人工的な高音を発するが、邦楽では基本的に地声しか使わない。
 いずれも、西欧では人工的な純粋な音が追求されるが、日本では自然の中に存在する風の音や日常的な声を重視している。
 身体芸術の分野でも、西洋のクラシックバレエはトウシューズで爪先立ちになり、跳躍と回転を繰り返す。その姿は、日常の人間が決して取ることのないポーズであり、動作である。その対極にあるのが、日本舞踊だろう。基本的には中腰の姿勢であり、振りの多くは日常の動作の延長にある。日常で見られないような極端な姿勢や、動作は行わない。
 日本人は、人工的なものより、自然に共感を感じる傾向があるように思う。
 その一方で、絵画については、ヨーロッパが歴史的に立体表現に多大な関心を持ち、陰影やハイライト、遠近法等の技術を確立したのに対し、日本では立体表現よりも平面的な表現を好んでいる。
 また、建築についても、ヨーロッパ建築は外装も内装も空間を埋めつくすような装飾で覆われているが、日本建築は白壁のように空間そのものを表現している。庭園についても、西洋では左右対称で幾何学的にデザインされることが多いが、日本では自然のままの景色をコンパクトに表現したり、あるいは枯山水のように抽象的、象徴的な表現を好んでいる。
 フランス料理ではソースの体系が非常に高度に発達しているが、日本料理では刺身に代表されるように、素材そのものを生かすことが重視されている。
 洋服は、鎧のように、人間の身体を基本に立体的なフォルムで覆うことが基本だが、日本のきものは平面の布で立体の身体を包むという発想である。その結果、乾燥したヨーロッパでは外気を遮断する洋服が作られ、湿度の高い日本では常に外気が身体に触れる風通しの良い開放的なきものが作られた。
 このように、あらゆるジャンルで西洋と日本は異なっている。その大きな要素の一つが「人間と自然の関係」であることは間違いないだろう。
 明治になり、江戸の思想や文化は全て否定され、西欧へのキャッチアップを目指すようになった。また、戦後復興時には豊富な物量を擁するアメリカに憧れ、アメリカの使い捨て文化を取り入れ、アメリカ的なライフスタイルを追いかけてきた。
 しかし、リーマンショックにより,アメリカの繁栄も永遠ではないことが分かった。また、最近ではEU欧州共同体にも様々な歪みが出てきている。日本も製造業によって経済発展をなし遂げたが、海外への生産移転により、空洞化が進み、高齢化と人口減少に直面している。
 正に、先進国総崩れの様相を呈しているのだが、こんな時代だからこそ、日本のユニークなアイデンティティに目を向けることが必要ではないだろうか。

*有料メルマガj-fashion journal(54)を紹介しています。本論文は、2012.12.10に配信されたものです。リアルタイムでの講読をご希望の方は、http://www.mag2.com/m/0001355612.htmlよりお申し込みください。

« 日本ファッションは日本文化の表現である(上) j-fashion journal(53) | Main | 自民大勝の選挙結果に何を見る? j-fashion journal(55) »

「ファッションビジネス」カテゴリの記事

Comments

Post a comment

Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.

(Not displayed with comment.)

« 日本ファッションは日本文化の表現である(上) j-fashion journal(53) | Main | 自民大勝の選挙結果に何を見る? j-fashion journal(55) »