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July 05, 2013

日本ファッションは日本文化の表現である(上) j-fashion journal(53)

1.日本の近代化は西欧の模倣から始まった

 明治の文明開化は明治天皇の洋装から始まった。江戸時代の江戸の市民にとって、支配者は将軍様であって、天皇や公家は非常に遠い存在だった。歌舞伎に登場する公家はほとんど妖術使いである。それほど、庶民と乖離した人間離れしたイメージだったのだろう。
 将軍様が薩長軍に破れ、突如として明治天皇が登場した。そして、明治天皇の御真影とされているのが、軍服を着た凛々しい姿である。明治時代は洋服と共に始まったと言っていいだろう。
 そして、明治4年に西洋式ガス灯が灯され、明治5年に蒸気機関車が走り、富岡製糸場が創業した。そして、生糸、洋食器等が輸出され、外貨を獲得し、明治37年に日露戦争が始まり、38年に講和している。そして、日本中にレンガ作りの洋館が立ち並んだのである。
 当時は、ひたすら、江戸的なもの、日本的なものを否定し、西欧を模倣する時代だった。
 日清戦争、第一次世界大戦に勝利し、日本は世界の先進国と肩を並べるほどに豊かになって行った。
 第二次世界大戦で敗北し、日本は焼け野原となる。進駐軍がアメリカ文化を持ち込み,日本はアメリカの消費文化に憧れた。そのアメリカの支援もあって、戦後の高度経済成長に突き進むのである。
 しかし、戦後になっても、女性のフォーマルウェアはきものだった。洋服は軍服や官庁の役人が着用する社用服としての背広が中心であり、職場で洋服を着用している彼らも、帰宅すればきものに着替えるのが普通だった。洋服はあくまで借り物の文化だったと言える。
 1971年に日米繊維交渉が決裂し、繊維産業は輸出から内需へと転換。アメリカの既製服産業をモデルとする日本のアパレル企業は、ここから急成長を遂げていく。
 ここにいたるまで、日本のファッションは西欧の模倣の時代だった。西欧の模倣こそが正当とされたのである。

2.ヨーロッパが感動した江戸文化
 明治から戦後にいたるまで、日本国内では、ひたすら西欧の模倣を続けていたが、ヨーロッパでは何度かの日本再発見がなされていた。
 以下はウィキペディアからの引用を中心にまとめたものである。
 1856年頃、フランスのエッチング画家フェリックス・ブラックモンが、摺師の仕事場で磁器の輸送の際に詰め物に使われていた『北斎漫画』を目にした。ここから熱狂的な浮世絵版画の収集が始まる。1860年から1861年にかけて出版された日本についての本の中では、浮世絵がモノクロで紹介されている。
 1870年代と1880年代、多くのフランスのコレクターや作家、芸術評論家が日本に渡った。その結果、ヨーロッパ、特にフランスにおいて日本の美学に関する出版物と工芸品がさらに広く知られるようになった。
 日本では文明開化が起こり、浮世絵などの出版物が急速に衰えていく一方で、日本美術はヨーロッパで絶大な評価を受けていたのである。日本美術から影響を受けたアーティストにはピエール・ボナール、マネ、ロートレック、メアリー・カサット、ドガ、ルノワール、ホイッスラー、モネ、ゴッホ、カミーユ・ピサロ、ポール・ゴーギャン、クリムト等、多数いる。
 これらのアーティストは、多くの日本美術の特徴を取り入れた。ジャポニスムの流行った当時、欧米のアーティストは日本美術の不規則性と非対称性に大変関心を寄せた。西洋のものとは異なる遠近法が用いられており、中心が中央から外れて構成されている。また写実的陰影法も無く、鮮やかな色彩で平面構成がなされている。これらの要素は19世紀までの画家にとって前提であったローマン・グレコ様式(Roman-Greco art)の正反対、まさに対極にあるものであった。西洋の画家たちが近代的な表現技法に行き詰まりを感じているなか、日本のアートは彼らの心理を、伝統に束縛された慣習から解き放ったひとつの契機となったのである。
 浮世絵は線で構成されており、何も無い空間と図柄のある部分にくっきりと分かれ、立体感がほとんど無い。これらの特徴はアール・ヌーボーに影響を与えた。
 こうして20世紀になると、シャポニズムは完全に西欧芸術に溶け込んでいく。 高田賢三がパリに渡り、「ジャングル・ジャップ」を開いたのが、1970年。1973年には、パリコレでデビューし、一躍、時代の寵児となった。
 日本国内だけで見ていると、戦後の洋装ブームから既製服メーカーが誕生し、その流れの中で何人ものデザイナーが誕生する。その一人が高田賢三であり、同級生のコシノジュンコ、松田光弘、金子功ということになる。
 しかし、パリの視点で見ると、1968年の5月革命から始まった新しい学生運動という時代の流れの中で、デザイナーの世代交代が待たれた時期であったとも言えるだろう。そこに、日本の若手デザイナーが彗星のように現れ、コットンの色鮮やかな服を発表したのだ。これは、19世紀のジャポニズムに匹敵する文化的な驚きだったはずである。
 私はこの頃から、日本のアイデンティティが問われるようになったと思う。まず、パリで評価され、それが日本に輸入された形である。そして、賢三に刺激されて、1974年にTD6が結成される。ここから、東京コレクションへの流れが始まるのである。
 そして、世界に目を転ずれば、アルマーニが最初のコレクションを行うのが75年。それ以前にもミラノコレクションはあったが、私はアルマーニから本格的なミラノコレクションがスタートしていると考えている。
 また、カルバンクラインが第一回のコティ賞を受賞したのが73年であり、日本にニューヨークデザイナーの第一号として紹介されたのが75年。私はカルバンクラインからが本格的なニューヨークファッションが始まったと考えている。
 こう考えると、ファッションの中心がパリからミラノ、ニューヨーク、東京へと拡大していったのも70年代前半であり、この頃からファッションのアイデンティティという問題が問われるようになったと言っていいだろう。

 第二次世界大戦で敗北し、日本は焼け野原となる。進駐軍がアメリカ文化を持ち込み,日本はアメリカの消費文化に憧れた。そのアメリカの支援もあって、戦後の高度経済成長に突き進むのである。
 しかし、戦後になっても、女性のフォーマルウェアはきものだった。洋服は軍服や官庁の役人が着用する社用服としての背広が中心であり、職場で洋服を着用している彼らも、帰宅すればきものに着替えるのが普通だった。洋服はあくまで借り物の文化だったと言える。
 1971年に日米繊維交渉が決裂し、繊維産業は輸出から内需へと転換。アメリカの既製服産業をモデルとする日本のアパレル企業は、ここから急成長を遂げていく。
 ここにいたるまで、日本のファッションは西欧の模倣の時代だった。西欧の模倣こそが正当とされたのである。

2.ヨーロッパが感動した江戸文化
 明治から戦後にいたるまで、日本国内では、ひたすら西欧の模倣を続けていたが、ヨーロッパでは何度かの日本再発見がなされていた。
 以下はウィキペディアからの引用を中心にまとめたものである。
 1856年頃、フランスのエッチング画家フェリックス・ブラックモンが、摺師の仕事場で磁器の輸送の際に詰め物に使われていた『北斎漫画』を目にした。ここから熱狂的な浮世絵版画の収集が始まる。1860年から1861年にかけて出版された日本についての本の中では、浮世絵がモノクロで紹介されている。
 1870年代と1880年代、多くのフランスのコレクターや作家、芸術評論家が日本に渡った。その結果、ヨーロッパ、特にフランスにおいて日本の美学に関する出版物と工芸品がさらに広く知られるようになった。
 日本では文明開化が起こり、浮世絵などの出版物が急速に衰えていく一方で、日本美術はヨーロッパで絶大な評価を受けていたのである。日本美術から影響を受けたアーティストにはピエール・ボナール、マネ、ロートレック、メアリー・カサット、ドガ、ルノワール、ホイッスラー、モネ、ゴッホ、カミーユ・ピサロ、ポール・ゴーギャン、クリムト等、多数いる。
 これらのアーティストは、多くの日本美術の特徴を取り入れた。ジャポニスムの流行った当時、欧米のアーティストは日本美術の不規則性と非対称性に大変関心を寄せた。西洋のものとは異なる遠近法が用いられており、中心が中央から外れて構成されている。また写実的陰影法も無く、鮮やかな色彩で平面構成がなされている。これらの要素は19世紀までの画家にとって前提であったローマン・グレコ様式(Roman-Greco art)の正反対、まさに対極にあるものであった。西洋の画家たちが近代的な表現技法に行き詰まりを感じているなか、日本のアートは彼らの心理を、伝統に束縛された慣習から解き放ったひとつの契機となったのである。
 浮世絵は線で構成されており、何も無い空間と図柄のある部分にくっきりと分かれ、立体感がほとんど無い。これらの特徴はアール・ヌーボーに影響を与えた。
 こうして20世紀になると、シャポニズムは完全に西欧芸術に溶け込んでいく。 高田賢三がパリに渡り、「ジャングル・ジャップ」を開いたのが、1970年。1973年には、パリコレでデビューし、一躍、時代の寵児となった。
 日本国内だけで見ていると、戦後の洋装ブームから既製服メーカーが誕生し、その流れの中で何人ものデザイナーが誕生する。その一人が高田賢三であり、同級生のコシノジュンコ、松田光弘、金子功ということになる。
 しかし、パリの視点で見ると、1968年の5月革命から始まった新しい学生運動という時代の流れの中で、デザイナーの世代交代が待たれた時期であったとも言えるだろう。そこに、日本の若手デザイナーが彗星のように現れ、コットンの色鮮やかな服を発表したのだ。これは、19世紀のジャポニズムに匹敵する文化的な驚きだったはずである。
 私はこの頃から、日本のアイデンティティが問われるようになったと思う。まず、パリで評価され、それが日本に輸入された形である。そして、賢三に刺激されて、1974年にTD6が結成される。ここから、東京コレクションへの流れが始まるのである。
 そして、世界に目を転ずれば、アルマーニが最初のコレクションを行うのが75年。それ以前にもミラノコレクションはあったが、私はアルマーニから本格的なミラノコレクションがスタートしていると考えている。
 また、カルバンクラインが第一回のコティ賞を受賞したのが73年であり、日本にニューヨークデザイナーの第一号として紹介されたのが75年。私はカルバンクラインからが本格的なニューヨークファッションが始まったと考えている。
 こう考えると、ファッションの中心がパリからミラノ、ニューヨーク、東京へと拡大していったのも70年代前半であり、この頃からファッションのアイデンティティという問題が問われるようになったと言っていいだろう。

*有料メルマガj-fashion journal(53)を紹介しています。本論文は、2012.12.3に配信されたものです。リアルタイムでの講読をご希望の方は、http://www.mag2.com/m/0001355612.htmlよりお申し込みください。

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