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November 04, 2012

日本から高級ブランドを発信しよう j-fashion journal(32)

1.なぜ、日本ではクリエイターが尊敬されないのか?

 ヨーロッパでは、クリエイターは尊敬の対象となる。クリエイターとは「無から有を生み出す」仕事である。見本があって、それを真似するのではない。見本の通り忠実に再現するのも、高い技術が必要である。しかし、その才能と「無から有を生み出す」才能は別だ。
 日本では、見本通りに再現する技術者は尊敬される。また、「改善」も高く評価される。総じて、「有から有を生み出す」ことは高く評価されるのだ。
 日本人には、クリエイティブな能力を評価する能力がないのだろうか。いや、そんなことはあるまい。アートの世界では、その独創性や個性は高い評価を受けている。
 アートで評価されるクリエーションがビジネスでは評価されない。日本では、アートとビジネスの間には明確な区別があるらしい。

 たとえば、日本のファッション業界では、クリエイティブな作品は「趣味的なもの」として扱われる。一方、市場調査をして売れ筋を見つけ、それをアレンジすることは仕事だと考えている。他社のコピーをすることを恥とは思わないどころか、巧みにコピーすることは高い評価を受けるのだ。
 これと似たことは多い。たとえば、海外の学者の文献を翻訳して紹介することには高い評価を与えるが、独自の発想の論文は評価しない。「それは個人的な考えに過ぎない」と言われるのだ。そして、世界で評価が定まったことを紹介することは仕事として評価されるのである。
 こうしたことは、日本の歴史的、地理的条件によるのかもしれない。太古の昔より、価値あるものは、中国大陸や朝鮮半島から渡来するものだった。それを日本的に改善し、アレンジすることで、日本文化を構築してきた。最初のオリジナルは、日本より進んだ国で評価の定まったものでいい。日本では、それを基本にアレンジすることこそ、文化の発展に寄与するという考えが、遺伝子レベルで刷り込まれているのかもしれない。
 ファッションの世界で言えば、世界の有名ブランドのライセンス権を取得したり、ライセンス生産することは評価される。しかし、自分でブランドを立ち上げ、オリジナルデザインを展開することは評価しない。「好きでやってるんだろう」「趣味でやってるんだろう」という評価になってしまう。しかし、それがヨーロッパやアメリカで評価を受ければ、それは評価が確立したことになる。ありがたく受け入れるのだ。
 こうした文化的背景は、日本に評論や批評という文化を根付かせなかった。評論や批評は、評価を確立し、普遍的な価値として認定する作業である。評論や批評や欧米に任せておけば良いと考えているのだ。
 従って、日本でデザイナーが認められることはない。欧米で認められたデザイナーを追随して評価すればいいのである。そう考えると、日本でコレクションを行う意味はあるのか、と疑わざるを得ない。

2.農耕民族と狩猟民族の仕事の違い

 日本人の仕事観には、農耕民族的発想が色濃い。仕事とは個人の能力で行うべきものではなく、むしろ凡人の集団で力を合わせて行うべきものという考えがある。この仕事観は、田植えや稲刈りのような集団作業を基本にしたものだ。個人の能力を高めるよりも協調性を高めることを優先する。突出した才能より和を尊ぶ。企業という組織は仕事を行う集団であるから、よりチームワークを重視する。そこには、個人の才能を伸ばそうとか、優れた個人を評価しようという思想は存在しないのだ。
 欧米人のような狩猟民族は、基本的に単独か少人数のチーム狩りをする。最終的に獲物を仕留めるのは個人の才能によるところが大きい。これはサッカーと同様である。集団で追い込んでも、最後のゴールを決めるのは、個人のセンスであり、チームは個人を評価する。
 狩りにおいて、個人の才能を駆使して獲物を仕留めれば、それは家族や村の利益になる。従って、独創的な個人の仕事を評価する。協調性を発揮して、獲物を追い込んだとしても、最後に獲物を仕留められなければ何の価値もない。従って、チームワークより個人の才能を高く評価する文化が育まれたのだろう。
 日本の一般的な仕事観は、農村の仕事である。農村の仕事観は企業文化として根付いている。漁師や海女、マタギのような狩猟民の仕事は、企業化されていない。従って、会社の仕事としてイメージされていない。特殊な職業集団や芸能集団も同様である。彼らは会社組織とは異質のものである。そしでその仕事も会社の仕事とは別物なのだ。
 日本社会は、農村の発想、農耕的組織が主体となっている。しかし、その社会は、狩猟的な小集団、特殊な才能を持つ個人や小集団が存在することで、バランスを取ってきたのではないか。しかし現代は、農耕的組織が異質な個人や集団を排除しようとしている。
 確かにアパレル業界のように、クリエイティブな仕事、オリジナルを創造する仕事は海外に依存すればいいと割り切れば、日本国内にはクリエイティブな仕事は必要ないのかもしれない。
 そして、デザイナー自身も、日本でクリエイティブな仕事をしようと思ったら、農耕民族の論理で動いている一般企業、一般社会とは一線を画さなければならないのかもしれない。
 事実、世界的な評価を受けている日本人デザイナーは、欧米社会の中で生きている。日本の一般アパレル業界とはほとんど接触がないのだ。あるとすれば、ライセンスビジネスにおいてだろう。
 一般のアパレル企業に所属すると、クリエイティブな能力は育たない。むしろ、スポイルされていく。日本のアパレル企業は、集団で売れ筋を追いかける農耕民族的なアパレルビジネスを基本にしているからだ。
 世界で評価されるデザイナーブランド企業と、大手アパレルを含む一般アパレル企業を同じアパレル業界という括りをすることに無理がある。まるで異なる発想、まるで異なるビジネスモデルと理解するべきである。
 ファッション専門学校、ファッションビジネス教育機関も、両者のどちらを志向するのか、明確にしなければならない。日本のアパレルビジネスに適応する人材なら、個性の追求、デザインの追求は必要ない。集団行動、協調性、一般ビジネスパーソンに必要なスキルを身につければいい。技術教育であれば、あくまで見本を忠実に再現するような技術。あるいは、ライセンスブランドを基本にした、デザインやパターンの展開を教えるべきである。
 そして、クリエイティブなデザイナーを育成するなら、日本の企業への就職を目指してはならない。海外企業か、海外で活躍する狩猟民族型の日本企業に就職することである。あるいは、自ら起業するか、だ。

3.なぜ、日本には高級ブランドが育たないのか?

 集団主義を中心とした農耕民族には、高級ブランドは必要ない。昔の日本メーカーが海外進出した時も、現地従業員と同じユニフォームを着用して、同じ社員食堂で食事をしたものである。これこそが、典型的な農耕民族的、農村的共同体の経営であり、日本の経済成長を支えた基盤となる思想である。
 もし、グローバル経営と言われているような狩猟民族的、狩猟的な経営を目指すならば、結果の平等はあり得ない。機会は均等でも、優秀な実績を上げた人材には高い報酬を与え、待遇に差をつけるべきである。年功序列も否定しなければならない。年齢が上だという理由で、当たり前のように高い報酬を受けるのは、農村的共同体ならではである。
 現在の日本は、狩猟民族的思考を十分に獲得しないまま、制度だけを導入している。その結果、学歴、年齢、国籍、性別等により、あるいは、正規社員と派遣社員のような身分によって、当然のように待遇を差別している。ある意味では、封建的身分制度を復活させたに過ぎない。このままでは、農村的な集団行動もできないし、狩猟に必要な戦略的行動もできないだろう。つまり、国際市場では通用しない企業の集団となっているのだ。
 高級ブランドを支えているのは、「高所得の人は高価格の服を着る」というライフスタイルである。勿論、住居も豪華にして、食生活も高い食材による高級料理を食べる。どんなに金持ちになっても、質素な服を着て、粗食に甘んじる、という文化には高級ブランドは必要ないのだ。
 所得が高いということは、優秀であり、成功者であることを表す。そして、自分が優秀な成功者であることを、成功した人達で構成された特定の集団にアピールし、その一員に加えてもらおうとする。こうした階層社会があってこそ、高級ブランドは存在する。階層社会を容認するような価値観がなければ、高級ブランドを発想することはできない。
 集団で売れ筋を分析してできるのは、中級商品までである。高級ブランドでは、未だ価値が定まっていないもの、言い換えれば売れるか売れないか分からないものを、打ち出していかなければならない。
 日本には、真の意味で高級ブランドを必要とする階層社会もないし、高級ブランドを支える階層社会を容認するというコンセンサスもない。現在でも、結果の平等を期待する「一億総中流」の発想が支配的なのだ。
 メーカーも同様だ。高級品を作って、一部の人を喜ばせるよりも、大衆に喜んでもらいたいと思っている。小売店も同様である。ごく一部の顧客のための店を作るのではなく、世間が認めてくれるような店を作りたいと考える。
 日本市場を考えれば、中級品で十分なのだ。しかし、問題は日本のコストが高く、海外から安い輸入品がどんどん入って来るということである。日本に存在する日本企業が生産すれば、それだけで世界の高級品並の価格になってしまう。選択肢は二つしかない。国内生産を止めて海外生産に移行するのか。あるいは、世界市場を見て高級品を作るのか。
 これはデザイナーも同様である。海外生産を活用した中級品を作って日本市場で販売するのか。それとも国内生産を活用して、世界市場の中で高級品を作るのか。このことを真剣に考えなければならない。

4.世界が期待している日本の高級品とは何か?

 日本企業がクリエイティブではないのに、世界は日本をクールと評価している。しかし、クールと言われているのは、日本の農耕民族的な企業や組織から生み出されたものではない。アニメ、マンガ、ゲーム、ストリートファッション。あるいは、日本の伝統工芸の職人技、伝統芸能等である。これらを農耕民族的な会社が認めたことがあるだろうか。
 アニメ、マンガ、ゲームをビジネスとしているのは会社であり会社員かもしれない。しかし、それを支えている現場は実力主義であり、個人の才能である。クールジャパンと言われている世界は、ある意味で、才能のある個人に依存したビジネスである。会社が行っているのは、それらの個人から利権を搾取しているとも言えるだろう。
 原宿のストリートファッションは既に日本の代表的な観光資源だ。しかし、それを支えているのは企業の経済活動ではなく、個人の自己表現活動である。
 京都の舞妓も優れた観光資源だが、やはりそれを支えているのは企業でも会社でもない。エリートコースを歩んでいる人間が足を踏み込まない世界なのだ。
 世界が認めている日本とは、大企業の正社員ではない。大企業でもない。日本国内で見れば、経済的にも恵まれていない不安定な世界から生み出されたものだ。ある意味いかがわしく、その分、エネルギーに溢れている。
 世界が日本に期待している高級品とは、ヨーロッパのブランドとは全く異なるものだろう。そのヒントは、村上隆のカイカイキキにあるように思う。
 村上隆の偉大さは、その作品の芸術性だけでなく、市場創造にある。彼は自分の作品だけでなく、現代アートの新しいジャンルを創造した。彼の作品である等身大フィギア「My Lonesome CowBoy」は16億円で落札された。「村上隆の作品は芸術でない」と非難する人も存在するが、彼の作品が西欧の模倣ではなく、オリジナルであることは否定できないだろう。また、彼の出現以前に、等身大フィギアは芸術と認定されなかったはずだ。
 ファッションの世界では、マスターマインド・ジャパンが独自のカジュアルな高級品を発表している。彼らもまた、独自の市場を創造したと言えるだろう。
 世界が日本に期待しているのは、欧米の模倣ではない。日本から発信された本物である。その中でも、中級品ではなく、一流品、高級品と言われるものを作ることで始めて、日本の技術が活かされるのである。
 巧みに欧米の物真似をしても、あくまで二流にしか過ぎない。世界の一流になるには、揺るぎないオリジナリティが必要であり、それには独自の文化や美意識が根底に存在しなければならない。そして何より、デザイナーの意識を高く保たなければならない。

*有料メルマガj-fashion journal(32)を紹介しています。本論文は、2012.7.9に配信されたものです。リアルタイムでの講読をご希望の方は、http://www.mag2.com/m/0001355612.htmlよりお申し込みください。
 
 

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