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May 03, 2012

脳消費の時代 j-fashion journal(12)

「脳消費の時代」

1.なぜ、モノが売れないのか?
 モノが売れない原因は二つある。第一に、モノを買わないこと。第二に、小売店を経由して買わないこと。小売店にとって、小売店を経由して買わないことは売れないということだ。
 「モノを買わない」という事例は、我々の周囲にいくらでも見られる。通勤電車の中を見ても、以前は週刊誌、新聞、マンガ雑誌、文庫本等を読んでいた人が多かった。しかし、現在では、ゲーム機、携帯を見つめている人が多い。ゲーム、音楽、画像、メール、SNS等を楽しんでいるのだ。反面、出版社や新聞社の売上は大幅に下落している。
 携帯やゲーム機の怖さは、細切れの生活時間を次々と埋めていくことだ。仕事や勉強、食事、入浴やトイレ、通勤や移動時間の隙間に携帯が割り込んでくる。 携帯やゲームがなかった頃は、街をブラブラ歩いたり、歩きながらいろいろと空想する時間があった。少なくとも街に出る時間があり、そこでいろいろなモノを目にしていた。しかし、街を歩きながら携帯をチェックしているのでは、ウインドーショッピングなどあり得ない。おそらく、ウインドーディスプレーの効果も減少しているだろう。

 携帯もネットもなかった時代、人とつながるにはリアルに人と会って、話をしなければならなかった。そのために、コーヒーを飲んだり、外食したものだ。しかし、今は一人で食事をして、目の前の料理を写真に撮り、SNSにアップする。日本全国の人から「いいね!」や「美味しそうですね」というコメントが届き、仮想のコミュニケーションが生まれる。喫茶店や飲食店の売上は確実に減少しているのだ。
 細切れの時間が携帯やゲームに奪われることにより、生活の中で「ボーッとする時間」がなくなっている。ボーッとする時間は、ハンドルの遊びのようなもので、人間の感情や心理状態を円滑にするための「必要なムダ時間」だったと思う。ゲームに熱中している人は同時に睡眠時間も削っている。
 こうした生活の結果、人間の心理状態、健康状態、ストレスにどのような影響が現れるのかは、現在、壮大な実験中ということだ。
 小売店を経由した購買行動が減少しているのも事実だ。昔は百貨店が「小売の王様」と言われた。しかし、72年に三越の売上をダイエーが追い抜き、2000年にはダイエーをセブンイレブンが追い抜いた。2008年には量販店全体の売上をコンビニ全体が追い抜き、2009年には、インターネット通販の売上がコンビニの売上を追い抜いている。
 現在の若い世代にとって、コンビニとインターネット、宅配便が機能していれば、欲しいものは何でも手に入るのである。
 また、既存の百貨店、量販店、専門店のように問屋を仲介するのではなく、
メーカーから直接商品を調達する大型専門店のシェアが伸びている。ユニクロ、しまむら、ニトリ、イケア、あるいは海外資本のファストファッションもそれに該当するだろう。
 まさに、流通業界は激動の時代を迎えている。あまりに変化のスピードが早く、会社の中でボーッとする人が増えているかもしれないが・・・。

2.知る人と知らない人の経済格差
 もう一つ、産業構造について考えたいことがある。それはICT(情報通信)産業の成長である。一般消費者にとって、生活費に占めるゲーム・インターネッ
ト関連費用や通信費の割合が増大したように、企業にとってICT関連の費用が増大している。
 一般の経営者や会社員にとって、ICTはブラックスボックスである。情報システムの恐ろしさは、「不具合が出たら、それに逐次対応すればいい」というビジネスモデルである。何億円も投資して開発したシステムが動かないケースがいくらでもあり、システムが稼働しなくなっても、その影響による損害の責任は負わないという契約がなされている。勿論、システム開発会社にすれば、システムの不具合による経済的損失を補填していたら、即、倒産であり、そんな契約を交わすことはできないだろう。それでも、通常の商品に製造責任が義務付けられていることを考えれば、想像を絶するビジネスモデルである。
 しかも、情報システムは中身が見えない。人時の見積もりを出されてもそれが正しいのか、不当なのかを検証できない。ゼロから作ったシステムなのか、汎用的なシステムをカスタマイズしただけかも、素人には判断できない。ハードウェア、保守契約も同様である。このシステムにはこの性能が必要だと専門家に言われれば信じるしかない。実際には、その性能の10分の1のスペックでも良いのかもしれないし、コストも大幅に削減できるかもしれない。無駄な保守契約もあるかもしれない。しかし、そうしたことを疑う知識さえないのだ。
 あらゆる経済活動がデジタル化され、そのデジタル化の内容については、何も分からない。ただ、業者の言うがままに経費を払い続けている。そのことが現在のグローバル経済の根底にある。
 ICTビジネスの本質とは、知る人が知らない人から搾取しているビジネスではないだろうか。そして、知らないからこそ、そこには触れずに崇拝している。ある意味で、宗教的なビジネスとも言える。しかし、そんなバカなことがいつまでも続くはずがない。宗教改革のようなICT改革が起こるに違いない。

3.脳消費、脳経済、脳ビジネス
 消費スタイルの変化の根底には、「身体の満足」から「脳の満足」へという変化がある。携帯ゲームやSNSによるコミュニケーションは、脳を刺激し、脳が喜んでいるのだ。
 モノを作り、モノを運び、モノを購入し、モノを廃棄するという経済活動は目に見える物理的なものだった。脳ではなく、身体が参加していた。そして、身体を動かすことに喜びを感じた。しかし、身体を動かす時に快感を感じているのは「脳」であり、脳を直接刺激しても同じではないか、という考え方も成立する。これが正しいのか否かは、断言できない。私は、人間が本当に脳の奴隷なのかは即断すべきではないと思っている。しかし、現在の科学では、脳が人間を支配しているとされているのだ。
 旧来の価値観において、ゲーム、SNSなどは時間の浪費に他ならない。国民全員が携帯に向かっていたのでは、経済活動が停止すると考えるだろう。しかし、その経済自体がICT中心になろうとしており、ICTの支出は必要経費として疑われることもない。そして、その経費を確保するために、商品原価は削られ、
人件費の低い国や地域に生産拠点を移転させている。
 モノが売れなくなり、モノを扱う経済の比率が減少している。そして、脳を満足させる行動への支出が増え、それを支える産業が成長する。これはある意味で自然な流れであり、健全なことかもしれない。問題は、我々が急激な「脳経済への変化」に対応できないことである。また、ICTに関する知識が乏しいことも問題だ。ICTの知識がないことで経済的に搾取されていることにも気がつかないほど、知識が欠如しているのである。
 商品の消費の本質は「脳消費」になろうとしている。モノとしてまだまだ使えるが、脳が喜ばなくなったら廃棄される。それは飽きてしまうことであり、流行遅れになることであり、デザインが陳腐に感じられるようになることだ。
 そして、脳が最も喜ぶ情報はインターネット回線を通じて届けられ、スマートフォンやタブレット端末で携帯できるようになっている。音楽ダウンロードがそれであり、電子書籍がそれに続くだろう。既に、多くの若者は新聞を講読しなくなっている。インターネットでニュースをチェックすることができるからだ。
 こうした情報コンテンツ経済は、「脳経済」とも言えるだろう。そして、「脳消費」「脳経済」に基づく、「脳ビジネス」を考えなければならない。

4.「こだわるモノ」と「こだわらないモノ」
 こだわり、拘泥とは元来、悪い意味に使われる言葉だった。「つまらないことにこだわるな」というように。しかし、最近では良い意味に使われる用例が増えている。「こだわりの食材」「こだわりの生活」等々。
 「こだわり」とは、十分実用に耐えるものに満足せずに、自分の独自の基準で物事を判断する行為である。昔は、個人の価値観に対して、「そんなものにとらわれるな」と言っていたが、現在は「個人の価値観を持つ人は素敵だ」という評価に変わってきたのだ。「こだわり」は個人の価値観が基準になっているので、他の人にはどうでもいいことが多い。ある人は、食材にこだわるが、ある人は食器にこだわる。ある人は無添加にこだわり、ある人は味にこだわる。
 そして、こだわりとは偏りでもあり、こだわらないモノについては、気にしないということにもなる。全てにこだっていたら、脳が許容オーバーになってしまうだろう。
 そして、各個人は世の中のモノを、「こだわるモノ」「こだわらないモノ」に分類していく。こだわるモノには、時間もお金も惜しまずに掛けるが、こだわらないモノについては、なるべく簡便に済ませたい。
 携帯ゲームやSNSで脳が完全に満足しているのなら、衣食住にはこだわらないだろう。必要最低限のものがあればいい。ジーンズにこだわる人は、他の消費にはこだわらない。
 かつては、社会的ステイタスやライフスタイルという概念が機能していた。勿論、現在でも機能しているが、その影響は下がっている。社会的通年や世間の評価など、こだわり人間には関係ない。街中を寝間着に使ったジャージのまま歩いていても、本人にとって何でもない。そんなことにこだわっていないからだ。毎日、同じモノだけを食べ続けても何でもない人もいる。食事にこだわっていないのだ。
 一方で、こだわっているモノやコトには非常にうるさい。一般の人が分からないような細部まで評価の対象になる。まるでオタクの世界だ。
 そう考えると、こだわりとオタクは、ある意味で共通する概念である。こだわりを追求すると、最終的にオタクになる。既に、「オタク」は蔑称ではなく、尊称に格上げされていると言っていいだろう。
 「こだわるモノ」と「こだわらないモノ」の二極化が進んでいる。脳が基準なので、極端な二極化だ。平均はないし、中途半端もない。あるのは「集中と選択」であり、「徹底」である。そうなると、百貨店、量販店、専門店はどう生きていけばいいのか。また、メーカーは何を作ればいいのか。
 見える人には見えるが見えない人にはさっぱり見えない。知る人は知らない人を搾取する。全ては脳の思し召しである。

*有料メルマガj-fashion journal(12)を2カ月遅れで紹介しています。本論文は、2012.2.20に配信されたものです。リアルタイムでの講読をご希望の方は、http://www.mag2.com/m/0001355612.htmlよりお申し込みください。

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