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July 28, 2005

衣としての布、材料としての布

 長年、ファッション業界にいても、意外にデザインやファッションについて真剣に話し合う機会は少ない。興味のあるのは売上げや利益ばかりで、ファッションの質に関する話はほとんどなされないのだ。
 パリ、ミラノ、ニューヨークなどでは、常にアートやファッション、デザインについての会話が飛び交っている。その辺りに、日本のファッション業界の層の薄さを感じてしまう。
 昨日、たまたまアート寄りの人と話す機会があった。久々にファッションについて、特に「アジアの文脈の中でのファッション」(アートっぽい表現!)について考えさせられた。
 ヨーロッパの衣服は、基本的にフェルムの服、シルエットの服だ。人体というフォルム、理想的なプロポーションが原型となり、その上に衣服のフォルムが重なる。ファッションデザインの中心もフォルムであり、基本的なフォルムの上に様々な変化が加えられる。布はあくまで服の材料であり、シルエットを表現するマテリアルだ。
 きものや世界の民族衣装を見ると、布そのものが衣服であるケースが多い。服装史によると、服の始まりは古代エジプトの腰ひも、シェンティとのこと。当然だが、この細紐は細く織られた布であり、広い幅の布を裂いたものではない。アフリカの民族衣装には、細く織られた紐状の布を接ぎ合わせたものが多い。

 きものは、着尺幅の布を接ぎ合わせた構造である。布そのものが衣服であるという原則の中では、布のデザインの表現の多彩さ、服の形状をみても、最も洗練された衣服の一つだろう。
 布そのものが衣服であり、布そのものに命を感じているのだ。ここでいう服のデザインとは、布のデザインに他ならない。布の服の材料ではなく、布が服そのものなのだ。
 テキスタイルデザインにおいて、この違いは圧倒的だ。布を曲線的に裁断し、立体、フォルムを作り出す洋服において、理想は布ではなく、皮革なのかもしれない。その意味では、不織布という素材は洋服に相応しい。「布に不織布の芯地を張る」「布に伸び止めテープを張る」という行為は、布の命を奪い、布の皮革化を目指していると解釈できる。
 布そのものが衣服である場合、タテ糸とヨコ糸により構成される「方形」がパターンの基本になることはごく自然なことだ。タテ糸とヨコ糸の関係を壊す曲線的な裁断は、布の命を奪う行為にほかならないのだ。
 日本のテキスタイルがヨーロッパにない優れたテクニックを有しているのは、こうした布に命を与えてきた歴史ゆえだ。アジアのファッション、日本のオリジナルというテーマを考える時に、こうした西欧とそれ以外の地域の服の違いを認識することは非常に重要だと思う。
 布に命を吹き込む行為と、布による服に命を吹き込む行為は、基本的に異なる。洋服の場合、あまりにも布が主張すると服にならない。服を邪魔するのだ。従って、きものの生地を洋服に仕立てることには無理がある。(無理がある分だけオリジナル性が出るという解釈もあるだろうが・・・)
 布そのものが服である。そのオリジナル性を追求するという意味では、ヨーロッパよりもアフリカ、東南アジア、中近東等に関心を持った方が良いかもしれない。それらの民族衣装に現代という時代を吹き込む役割はやはり日本にあるのではないだろうか。◆

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