なぜ、目標を持たないで行動できるのか?
ファッション専門学校の学生から、「自分が何が分からないか分からない」「就職してから、何が分からないかを分かるようになりたい」と言われた。禅問答のような会話だが、そこまで分からないのか、と愕然とした。
まず、ほとんどの人間は「分からないことだらけ」の中で生きている。だから、分からないことが多いのは当たり前であり、何の問題もない。しかし、自分が必要としていることなのに、それが「分からない」という状況は問題だ。「分からないことが分からない」というのは、まず「自分が何を必要としているのか」が分からないことだろう。「自分が何を必要としているか分からない」ということは、「自分に明確な目標がない」ということにつながってくる。通常なら、目標がないのに努力はできないし、勉強もできない。しかしなぜか、大多数の日本人は目標がなくても努力できるのだ。
振り返ってみれば、日本の戦後教育とは「目標を持たせない」ことが大きなテーマだったのではないか。
小さい子は、何に対しても「なぜ」と聞く。「なぜ」と考え、その答えを見付けることが「考える」ことの訓練になっているのだと思う。しかし、親や教師はその問いかけに根気よく答えているだろうか。むしろ、「なぜ、なぜって聞くんじゃありません」「とにかく、言われた通りにすればいいの」と答えることが多いのではないか。理由を言わないで、服従することを覚えさせることは、思考力を奪う訓練でもある。
なぜ、勉強しなくてはいけないの?なぜ、遅刻してはいけないの?なぜ、朝礼で整列しなくてはいけないの?なぜ、皆で揃って行進しなければいけないの?
こうした疑問は封じ込められ、服従することを覚えさせられる。更に、子供たちは友達との間で協調することを教え込まれる。自分が嫌だと思っても、そうしないと仲間外れにされるから、嫌なことでもやる。そして、友達とは当たり障りのない話だけをするようになり、相手を批判しなくなっていく。そうして健全な批判精神というものが奪われていく。
「なぜ」を奪われ、「批判精神」を失うと、常に言われたことだけに服従する人間が育つことになる。行動には必ず目的が伴うものだが、その目的は常に与えられるだけであり、自分で目的を設定するという訓練は全くと言っていいほど、なされない。
幼稚園、小学校、中学校、高校、大学という過程の中で、自分で目標を設定し、そのためには、何が必要かを考え、それを実践していくという教育がなされているだろうか。与えられたカリキュラムを批判せずに受け入れ、何のために良い成績を取るべきかを考えることもなく、テストに追われているのだ。社会に出れば、今度は企業の中で「なぜ」を封じられ、「目標」を与えられ、企業のために働き続けることになる。いや、なっていた。就職がある時代には。
「就職がない」という状況は、常に与えられきた目標が突然なくなり、生きる目標を自分で探さなければならなくなる、ということでもある。これは非常に健全なことであり、人間が自立するためには必要不可欠なことでもある。目標を自分で設定するというのは、自立することを意味する。そして、自立は、服従しないことを意味する。
日本の教育の最も大きな問題は、「被占領者」「被統治者」「被支配者」の教育であったということだ。今後は、健全な個人主義を育成し、自立した人間として教育しなければならないのではないか。決して、「愛国心を養う」なんていうことではないはずだ。自分の人生の目標は自分で設定すべきものであり、愛国心や愛社精神により強制されるものであってはならない。そうすれば、「分からないことが分からない」という状況には陥らないはずである。◆
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