May 11, 2006
北米トヨタの社長が元秘書だった日本人女性社員からセクハラで訴えられた。その額は計1億9000万ドル(約215億円)。
それにしても、なぜ、セクハラなのか?ワイドショーによると、この社長は元秘書の女性いに、「君みたいにきれいな人がなぜ結婚しないのか?」と聞いたと言う。その後、講演で体をつかまれたり、性的接触(キス?)を強要されたとのこと。
多分、社長は彼女のことが好きだったのだろう。強引に迫ったのも、好きなんだから、という本人なりの大義名分があったのではないか。勿論、名門トヨタの北米代表であるという特権意識も少しはあったに違いない。
男が女を好きになることは珍しいことではない。勿論、職場でも同様だ。もう少しうまく立ち回れば、ロマンティックな話になったかもしれないし、悪くても社長の失恋話で終わったはずだ。それがセクハラになってしまう。
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March 31, 2006
映画の1シーン。恋人同士が互いの顔をくっつけるように話している。お互いに相手の気持ちは分かっているし、キスしたいと考えている。でも、しない。いつでもできる距離なのに、しない。そのことで揺れる気持ちを楽しんでいる。
初めて知り合ってから、こんな距離で会話ができるようになるまで、どれだけの時間が掛かったか。どの距離から始まって、こんなに近づけるようになったのか。そのプロセスが楽しいし、そのプロセスにこそ意味がある。それが分かっているから、距離の近さを楽しめる。
最近、携帯メールに届く出会い系サイトの広告は、こうした一切のプロセスを取り除こうとしているかのようだ。即連絡。即交渉、即実行。見たこともない相手と初めて出会い、会話もないままにホテルに直行し、関係を結ぶ。無限大の距離がいきなりゼロになり、また、無限大の距離に戻っていく。そして、自分には日常生活が戻ってくる。確かに、時間潰し、退屈しのぎにはなるだろう。「それでもいいから」というほど、寂しい時間を過ごしているのか。本当は何がしたいのか。自分の話を聞いてほしいのか。それとも、優しく触れてほしいのか。
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既婚者が一夫一婦制以外の異性と付き合うことについて、いろいろな表現があるが、それぞれにその時代の風潮を感じ取ることができる。
「浮気」という言葉は、最初、男側が言い訳に使っていた。「単なる浮気だよ」というように。本当の妻は君だけ。でも、つい浮気してしまって付き合ったけど、浮気であって本気ではない。だから許せよ、という感じだ。
「愛人」という表現は、「愛人契約」「愛人バンク」と続くと、ぐっとビジネスライクな響きになる。売春という響きは、貧しさに耐えかねて春をひさぐ哀れな女、というイメージが強い。愛人というニュアンスには、誰に強要されるわけではなく、どんな組織に所属するわけでもなく、1対1で自分から愛人契約をするのだからいいでしょう、という響きがある。良い言い方をすれば、大人の付き合い。悪く言えばふしだらということになる。
その後、少女たちにも「援助交際」が広まった。何でもお金で買えるというバブルの風潮が行くところまで行ったということだろう。
「不倫」という表現は、倫理に反しているという意味であり、最初から「悪いこと」だという響きである。これは、「愛人バンク」や「援助交際」という拝金主義的な男女関係を否定する感情がベースになっていることは間違いない。あるいは、一夫一婦制の既得権を持つ妻側からの発想とも言えよう。私は結婚しているから正当な妻であり正当な関係。そうでないあなたは不倫じゃない、という軽蔑の気持ちが込められている。
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December 18, 2004
最近の大人の男向け、女向けの雑誌には、「モテ親爺になるための方法」「モテ艶女のテクニック」といった文字が踊っています。これまで、会社という男性社会にドップリと使っていた男性や、出産、育児からスタートする地域の女性社会に浸っていた女性が、いよいよ男女のコミュニケーションに目を向けるようになったのでしょうか。
でも、「モテる」というのはどういうイメージなのでしょう?日本の男性雑誌の多くは、セックス至上主義です。モテることの最終目的はヤルこと。自分の部屋を「ヤリ部屋」と称して、女性を連れ込んでその気にさせるインテリアにしている男性も存在します。でも、正直いって、セックスってそんなに楽しいでしょうか?馬鹿の一つ覚えのように「ヤリたい、ヤリたい」というのはあまりにも精神年齢が低くはないでしょうか?セックスの肉体的快楽は、それほど大したことはないと思います。精神的な喜びもあるでしょうが、それが「征服欲の充足」だけであれば、それも独りよがりであり、虚しくはないでしょうか。セックスは男女の生活の潤滑剤にはなります。コミュニケーションの重要な手段でもあります。でも、あくまでそれは手段であり、目的ではないはずです。
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December 12, 2004
巣鴨地蔵商店街などに集まるおばあちゃんのファッションは独特のテイストを持っています。無地より柄ものが隙です。モンスラ(モンペ風スラックス)も柄ものが多い。ブラウスやニットも柄もの。それらの柄物を平気で組み合わせます。かなりしつこいのですが、ほとんど気にしません。また、ジャケットやベストの丈のバランスが微妙に長かったりします。
私はずっと不思議に思っていました。あのバランス感覚はどこから来ているのだろう。なぜ、あんなに柄ものが好きなんだろう。その疑問が氷解したのは、百貨店のブラウス売場を観察していた時です。シルバーミセスが好むブラウスは小花柄などの柄ものが多い。その柄もののブラウスを鏡に向かって、顔の横にあててるんです。販売スタッフは、「お顔映りがよろしゅうございますね」なんて言っている。
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November 27, 2004
黒という色は不思議な色です。ある意味で黒は色ではありません。闇です。白も色ではありませんが、白は色のついた光があたればその色になります。黒はどんな色の光があたっても黒です。したがって、白よりも黒の方が純粋と言えるでしょう。一方で、黒という色は全ての色が混ざった色とも言えます。どんな色より濁った色。それも黒です。
ファッションの世界で黒と言えば、1981年にパリコレで発表された、コムデギャルソンとワイズによる「黒の衝撃」です。当時、黒は喪服の色であり、モードの色ではありませんでした。シルエットはヨーロッパ人にとっては不定形。素材も穴開きのボロボロ。ヨーロッパ人のモードに対する価値観にことごとくアンチテーゼを唱え、当時のモード評論家の神経を逆撫でしたコレクションでした。しかし、その後、パリも黒に呪縛されます。あまりにも強烈な印象であり、堅苦しい伝統に飽き飽きしていた若いデザイナーは黒を支持しました。
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November 20, 2004
人に好かれる人、もてる人というのは、まず「優良な遺伝子」を持った人が考えられます。生き残る確率の高い人、健康な人、知能の高い人、運動能力の高い人等です。美男美女が好まれるのは、こちらの基準で選ぶ場合かもしれません。
また、顔の好みや体型の好みは国によって異なります。日本でもてなかった人も、外国に行くと状況が一変します。勿論、外国人もそうでしょう。自国でもてない人が日本に来た途端にもてたりします。混血の人は、どこの国でも美しいと表現されることが多いようです。混血になった悲しい歴史を別にすれば、異なる民族、つまり遠い血縁の人が結婚することは、人間という種族にとっては良いことなのかもしれません。無意識に遠い遺伝子を選んでいるのだとすれば、自分と似ていない人ほど好ましいということになります。太った人には痩せた人。背の高い人には低い人。醤油顔の人にはソース顔の人・・・。
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November 18, 2004
ハゲ・チビ・デブな男は、嫌われ者の3要素のように言われていますが、他の国ではどうなのでしょうか。外国人が日本に来て驚くのが「かつらのコマーシャル」の多さです。最近では、増毛、育毛、植毛などが加わり、ハゲに向けたコンプレックス産業は隆盛の一途です。しかし、日本人がこれだけハゲを恥ずかしく思い、かつらをかぶっているのは、外国人には不可思議に感じるようです。
男性のハゲは、男性ホルモンにも影響しています。つまり、男らしい人ははげやすいということであり、ハゲは男らしさの勲章でもあります。イタリア映画などを観ますと、ハゲ・チビ・デブの三拍子揃った男性が、ファッションモデルのような美女に迫り、口説いています。女性を口説くことが礼儀と心得、誰でも口説きまくるイタリア人だからこそではありますが、自分の容姿を気にすることなく、堂々とふるまう男は清々しくも思えます。これは女性に聞きたいところですが、三拍子の男を嫌うのは、それを気にして卑屈になっているからではないのですか?
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November 12, 2004
ファッションモデルって美しいですね。そして、ファッションモデルの多くは痩せています。「モデルのようになりたいから痩せる」という人がいますが、私には理解できません。
ファッションモデルという仕事は、多種多様の服を着なければなりません。ハンガーのように痩せていれば、どんな服でも着られます。したがって、モデルは痩せている人が多いのですが、これが美しいかというと別の問題だと思います。
私がモデルを凄いと思うのは、楽屋でどんなに文句を言っていても、洋服を着てステージに出た瞬間、洋服の気分に自分を合わせて、着こなしてしまうことです。そして、ステージを降りた瞬間、しかめ面に戻り、靴を脱ぎ捨てるということになります。勿論、雑誌のモデルも同様でしょう。皆さんが見ているモデルは仕事の場で自分を完璧にコントロールしている姿であり、美しいのが当たり前です。でも、仕事以外の時間のモデルが美しいかどうかは疑問なのです。
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November 09, 2004
アメリカの青春映画では、よくダンスパーティーのシーンが登場します。普段はラフな格好をしている青年もその日ばかりは盛装をして女の子をエスコートします。男の子はどうやって女の子にアプローチするかで悩み、女の子は好きな子が自分にパートナーとして誘ってくれるかを悩みます。青春ですね。
日本でも、かつては地域社会の中に若い男女が出会うシステムがあったと思います。祭や青年団の活動の中で、自然と若い男女が出会う場が設定されていたのです。しかし、地域社会は崩壊し、男女の出会いの場はなくなりました。学校でも男女の問題からは逃避しています。「盛装のパーティー」なんて言おうものなら、貧富の差があからさまになるので良くないというPTAからの猛烈な反発が予想されます。また、学校は学問の場であり、男女の社交の場にするなど論外であるという教育委員会のコメントも予想されます。行っているのは貧弱で思想のない性教育だけであり、そこには男女が出会ってから結婚するまでのプロセスは全く含まれていないのです。
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